壁に挑む
 =原爆症集団申請= 7(完)

補声器をのど元に当て原爆犠牲者慰霊などの取り組みを説明する芦塚和雄さん=南高千々石町、橘神社

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壁に挑む =原爆症集団申請= 7(完) 再 び 最後の望みにかける 芦塚和雄さん(75) =南高千々石町=

2002/08/07 掲載

壁に挑む
 =原爆症集団申請= 7(完)

補声器をのど元に当て原爆犠牲者慰霊などの取り組みを説明する芦塚和雄さん=南高千々石町、橘神社

再 び 最後の望みにかける 芦塚和雄さん(75) =南高千々石町=

芦塚和雄さんは、日本被団協の原爆症集団申請を伝える報道を見た七月初め、長崎の窓口の長崎被災協に手紙を出した。

一九九六年、一度目の喉頭(こうとう)がんが見つかり、これまでに三十二回の放射線照射治療を受けている。原爆症を申請したが二〇〇〇年三月に却下された。直後の同年八月、がんが再発し声帯を摘出した。

手紙には、がん再発の手術で声を失った苦しみ、不自由な生活などをしたためた。手紙を読んだ被災協の山田拓民事務局長はすぐに芦塚さんに会いに行った。

一人でも多くの被爆者を掘り起こすのが集団申請の目的の一つ。声を上げる人が現れたことは、運動が一歩ずつ広がっている証しでもある。

芦塚さん宅で書類を見せられた山田事務局長は言葉を失った。

原爆症申請時に添付書類となった医師の意見書には、何も記されていなかった。追加書類には「再発の可能性なし」と書かれていた。「そんなばかな。申請には医師が協力してくれないと…」

芦塚さんは、声を振り絞るように語り始めた。「私の人生の三分の二以上は病院との付き合い」。被爆後の脱毛や白血球増加、心臓病、腎臓病、そして喉頭がん。

声帯摘出後、話すときは補声器と呼ばれる装置をのど元に当てて声を出す。だが、やはり会話はしにくい。元小学校長の芦塚さんは、退院後、外出するのがつらくなった。「『先生、元気ですか』と道で声を掛けられても、会話ができず申し訳ない」

芦塚さんは再発したがんを新たな病気として再び申請する。「声を失った苦しみは耐え難い。もう一度やってみたい」。山田事務局長にそう伝えた。申請書類の作成は、被災協の協力を受けている。今度は一人ではない。心強い。全国の被爆者と一緒に最後の望みにかける。

あの日 学徒動員で爆心地から約二・三キロの三菱兵器住吉トンネル工場で魚雷を造っていた。十八歳だった。外に出ようとした瞬間、せん光が走った。夢中で機械と機械の間に頭を突っ込むと、地面を揺るがす爆発音と爆風がトンネル内に吹き込んできた。額を切り、真っ黒な血が顔にへばりついた。千々石町の自宅に戻る十二日まで爆心地近くに入り、救護活動を続けた。