壁に挑む
 =原爆症集団申請= 6

「私の命の綱です」。自宅に常備している酸素ボンベを手に取る山口初江さん=諫早市若葉町

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壁に挑む =原爆症集団申請= 6 掘り起こし 願いは一つ「病状見て」 山口初江さん(65) =諫早市若葉町=

2002/08/06 掲載

壁に挑む
 =原爆症集団申請= 6

「私の命の綱です」。自宅に常備している酸素ボンベを手に取る山口初江さん=諫早市若葉町

掘り起こし 願いは一つ「病状見て」 山口初江さん(65) =諫早市若葉町=

原爆症認定を求める全国の被爆者が七月九日、一斉に集団申請してから十日後。長崎被災協は集団申請の学習会を長崎市内で開いた。山口初江さんは会場に入り、後方の席に腰を下ろした。

自宅には酸素ボンベを備え、外出時も携帯用を持ち歩く。「爆弾を抱えているようなもの」。四十歳代後半、「原発性心筋症」と診断されて以来、いつ、どこで起こるか分からない発作におびえている。

被爆直後、上半身が腫れた。被爆翌日からは親類を捜し、爆心地近くに入った。一九八七年ごろと九四年、原爆症を申請したが却下され、もうあきらめていた。不満だったが誰にも言わず、病苦を背負い生きてきた。

学習会は意見交換に移った。思わず手を挙げてしまった。「原爆の影響があるとされる心臓病でこれだけ苦しんでいるのに、なぜ認定されないんでしょうか」。山口さんは、初めて人前で怒りを口にした。

「もう一度申請しよう」。覚悟が決まった。

日本被団協は、第二陣の集団申請を今秋にも予定している。山口さんはそれに加わる。

過去の申請で行政の担当者と話したとき、「証人が必要」と言われた。「原爆投下翌日から三日間、爆心地から二―三キロ地点まで入った証人を出せ、と。証人なんて、死んでしまった祖母しかいない。そんな話がありますか」

再申請を決心してみると、今までの怒りが次々にあふれ出てきた。

「推定の被ばく線量だけが大事なのか。個人の病状を見てくれないのか。一人ひとりを見てほしい。願いはそれだけ」。“命綱”のボンベを脇に置き、山口さんは力を込めた。

あの日 爆心地から四・五キロ、長崎市愛宕町の自宅の庭で遊んでいると、飛行機が飛んできた。空を見上げた瞬間、ピカッ、ドーン。裸だった上半身は赤く腫れ、ひりひりした。光を見たために、涙が止まらず、目が開けられなかった。祖母のめいが、城山に行ったきり、行方不明になった。十日は長崎駅、十一日は梁川橋まで捜しに行き、祖母と周辺を歩き回った。八歳だった。