矛 盾 足ではなく、皮膚がんで 小幡悦子さん(73) =長崎市城栄町=
小幡悦子さんは七月、原爆症の認定を受けた。「ありがたい」と率直に感じた。だが釈然としない。「どうして」という思いが、もう一方で抑えられない。
被爆した際、両足に重傷を負った。骨折した左足や肉がえぐられた右足を三年間で七回手術。しかし、ひざは曲がらず、歩行が困難になった。
一九九六年、足の状態が悪化し入院。両変形性ひざ関節症で原爆症を申請したが、翌年に却下された。異議申し立てをし、二〇〇〇年には甲状腺機能低下症を追加した。
昨年、今度は皮膚がんの手術を受けた。そして今年春、皮膚がんで二度目の申請に踏み切った。すると、あっけなく認定された。「長年、足で苦しんだ。なのに足ではなく、皮膚がんで認められた。限られた病名じゃないとだめなの」。小幡さんの気持ちは複雑だ。
日本被団協は現在の認定審査の問題点として、放射線の影響と考えられる急性症状や障害の治癒能力の低下を重視しない点を挙げている。
長崎被災協の相談員は「足の骨折が完治しなかったのは、放射線影響による治癒能力の低下が原因。被爆直後の脱毛や高熱、下痢などの急性症状もあった。(長崎原爆松谷訴訟で原爆症認定を勝ち取った)松谷英子さんと同じ。認定されないのがおかしい」と話す。
小幡さんの、異議申し立て中の一度目の申請は、結論が出ていない。小幡さんは、まだ、あきらめていない。
「年老いていく被爆者に、残された時間は少ない。認定できる人は一日でも早く認定してほしい」。そう訴える小幡さんの決意は揺るがない。「集団申請した人が必ず認定されることを願い、私も一緒に闘います」
あの日 十六歳のとき、爆心地から一・二キロの三菱兵器茂里町工場で被爆。床の割れ目と道具に両方の大腿(たい)部を挟まれ、宙づりになった。左大腿部は骨折、右足は肉をえぐられていた。家族が救出に来る翌日まで、茂里町付近(爆心地から一・一キロ)で動けず、トラックの下に潜り込み、地面に伏せていた。自宅に戻った後、高熱や下痢、脱毛が続いた。