認定制度 救済の趣旨知らされず 山口英雄さん(70) =西彼長与町高田郷=
原爆放射線に起因する病気やけがを国が認定する原爆症。認定率は低迷を続け、年老いていく被爆者たちは「われわれを救済するための制度ではないのか」と怒りをあらわにする。原爆投下から五十七回目の今夏、日本被団協は、全国一斉に原爆症の集団申請に踏み切った。本県からは十五人が参加。その中には、初めて申請した人、数度の申請を却下された人など、認定の外に生き、苦しみ続けてきた人たちがいる。彼らの思いを通して、今回の集団申請の意義を考える。
「弟から聞くまで原爆症認定制度の存在すら知らなかった」。山口英雄さんは、なぜ制度の周知をしないのか、と町役場に尋ねた。「援護の手引書を渡したはず」。そう言われたが、思い出せなかった。
一九九三年、左肺の腫瘍(しゅよう)を手術。三年後には右肺を再手術。九九年、腎臓の腫瘍も摘出した。
「よくよく探すと(手引書が)たんすの引き出しにあった。長年、夫婦で旅館を営み、働きづめの人生。じっくり見る時間もないし、がんが原爆症とは誰も教えてくれなかった」
被爆者健康手帳を持つ被爆者には十一種類の一般疾病に対し、医療費が負担される。さらに、病気やけがが原爆放射線に起因し、治療が必要と国が判断すれば、原爆症と認定され、医療特別手当を受けられる。一般の戦争被害者と違い、被爆者は健康上の障害がいつ生じるか分からない。この特殊性から生まれた制度だ。
多くの被爆者が、放射線の影響による疾病におびえながら半世紀を生きてきた。だが、そんな被爆者でも、原爆症認定制度を知らない人は多い。
「兄ちゃんもしてみんね」。同じ場所で被爆した山口さんの弟は昨年、肺がんで原爆症に認定された。弟は、三度のがんを経験していた山口さんにも申請を勧めた。
どうしようかと思案していた今年三月、弟は亡くなった。「まさか弟が先に…」。健康への不安が強まった。「国にとって、あまり知られたくない制度なのではないのか。病気の被爆者を救う制度であるべきなのに」と腹が立った。
四月末、肺に再び小さな腫瘍が見つかった。山口さんは申請しようと心を決めた。最初のがん発病から十年が過ぎようとしていた。弟に背を押されている気がした。
原爆症の認定患者は全国で約二千百人。被爆者数の1%に満たない。「私と同じように、知らないまま、苦しんでいる人がいるはず。国はそんな被爆者と向き合ってほしい」。山口さんは、決意をそう語った。
あの日 爆心地から一・五キロの長崎市銭座町で被爆。十四歳だった。母と兄弟と縁側でくつろいでいた。飛行機が急降下する音が響き、オレンジ色の光の球体を見た瞬間、家の奥に駆け込んだ。家財道具が体に倒れ、気絶。左のこめかみが切れ、血が流れだした。終戦後、顔のけがが原因で、口が開かなくなった。高熱、下痢も続いた。