山口保雄さん(77) (大分県日田市川原町) 川棚で救護 惨状眼前に
長崎に原爆が投下された日、山口さんは東彼川棚町の兵器工場で魚雷製造の作業をしていた。大村湾を隔てた長崎方面から爆発音が響き、地震のような揺れに襲われたのを覚えている。
十日朝、救護に向かった海軍の船や漁船から負傷者が続々と同町に運び込まれた。駅にも列車が着くたびにやけどを負った人たちが降りてきて、駅舎や駅前の広場は被爆者であふれ返った。
防火用水に手を掛け倒れている人、新聞紙をかぶせられた死体、黒焦げの赤ちゃんを抱いたひん死の母親…。山口さんは救護に当たりながら「川棚でさえこんな惨状なのに、長崎は一体…」と恐ろしくなった。
戦争や原爆の悲惨さを若い世代に伝えたいと思い絵筆を執った山口さん。孫たちは絵を見て「怖い」と目を背けたが、こんな痛々しい光景が現実として眼前にあった。「惨禍を二度と繰り返してはならない」と山口さんは強く思う。