認定行政を問う
 =原爆症 集団申請へ= 1

長崎原爆松谷訴訟で最高裁でも勝利し、喜びの表情の松谷英子さん(中央)=2000年7月18日、長崎市桜町、県勤労福祉会館

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認定行政を問う =原爆症 集団申請へ= 1 遠い制度 松谷裁判、何だったのか

2002/07/06 掲載

認定行政を問う
 =原爆症 集団申請へ= 1

長崎原爆松谷訴訟で最高裁でも勝利し、喜びの表情の松谷英子さん(中央)=2000年7月18日、長崎市桜町、県勤労福祉会館

遠い制度 松谷裁判、何だったのか

あの日から五十七年たっても、原爆による病気で苦しむ人は多くいる。日本被団協は、被爆者の疾病に対する国の原爆症認定率が低迷している状況を打破しようと九日、全国十都道県で一斉に認定申請を提出する。本県では長崎被災協(葉山利行会長)が取りまとめ、十数人の被爆者が参加する予定だ。認定行政を問う運動の周辺を取材した。

「こりゃ、おれの人生も終わりかな」。長崎市深堀町六丁目の山口桂二さん(69)は、医師の説明を聞きながら思った。悪性腫瘍(しゅよう)だという。すぐに手術が必要だ、と。昨年十一月初め、そのまま入院した。

手術を受け、四カ月後に退院。「何とか生きながらえたが、やっぱり原爆だな、という思いが日に日に強まるんです」。療養生活は今も続く。

旧瓊浦中一年の時、同市の大波止桟橋で被爆した。猛烈なせん光と爆風の後、倒れた体を起こすと、濃密な粉じんに包まれていた。数日後、現在の長崎西高の場所にあった同中に登校し、がれきを片付け、火葬を手伝った。

「被爆当日も登校した日もすべて徒歩。焼け野原をひたすら歩いた。ずっと体がだるかった」

長崎被災協の山田拓民事務局長は「大波止は爆心地から約三キロ。従来の国の審査では申請は却下される」と言う。「だが、彼は粉じんにまみれた。登校時は爆心地から約六百メートルまで近づいた。戦後は病気に苦しみ続けた。こういう人こそ、認定を得なければならない」

過去にも別のがんを患った山口さんだが、申請を決意したのは先月末。被爆の影響を疑い続けてきたが「今まで『認定申請』という考えは浮かばなかった」。

申請件数に対する認定率は、制度開始の一九五〇年代の九割台から年を追って低下、九〇年代になると三割台まで落ちた。県内の認定患者数は五百七十一人(五月末)で、被爆者数の0・76%にすぎない。

集団申請を前に、重病の被爆者たちと面談した被団協中央相談所の横山照子相談員(被災協所属)は「制度を知らない人が多い。松谷裁判は何だったのかと考え込んだ」と言う。

長崎市深堀町一丁目の松谷英子さんが原爆症認定を求めた「長崎原爆松谷訴訟」は二〇〇〇年、最高裁で松谷さんの勝訴が確定。十二年間続いた闘いは、被災協など支援団体にとって、国の認定行政をただそうと声を合わせた運動だった。

「それでも自分と認定申請をつなげて考える人は少ない。この制度は、それほど被爆者にとって遠い所にある。皆さんの話を聞いて、もう一度この問題と向き合う必要があると思った」。横山相談員はそう語る。

メ モ
被爆者と原爆症 原爆投下時に被爆地域内にいたか、2週間以内に入市した人などは、被爆者健康手帳の交付が受けられ、月3万4330円の健康管理手当が支給される。治療を要するけがや病気が放射線による原爆症と認定されると、医療特別手当として支給額は月13万9600円となる。全国の認定患者数は長らく2000人台で推移している。