継承誓う同志たち 証言運動、教育、核廃絶…
「いま出口を求めて苦闘し続ける若い世代に呼びかける。(中略)進んで苦難を引き受け、子どもと父母、仲間とともに知恵を絞り、心を通わせ、団結を固めながら、人類史上まれなこの試練に耐え、そこから勝利と希望を紡ぎだそう。『受苦によって勝利を!』」
鎌田定夫は、会長を務める九州平和教育研究協議会の「九平研通信」の今年一月号で、現場教師たちにこう説いた。
鎌田は、平和教育にもこだわった。
「長崎の証言」運動が広がりを見せ始めた一九七〇年代初め、鎌田は、所属する長崎造船大(現長崎総科大)の付属高校にあえてゼミをつくり、高校生たちを毎年、被爆者に会わせた。県教組の教育研究集会で、平和教育分科会の助言者を長年務め、現場の小、中学校教員にも問い掛け続けた。
その初期から参加してきた元中学教員、末永浩(66)は「鎌田さんの問題提起は理論的だった。実践側の現場教師からすると難しい話が多い。だがあの場は、理論と実践のいい意味でのせめぎ合いをエネルギーに変えることができた」と振り返る。
鎌田との議論で対立することも多かった末永は、二十八日に営まれた告別式で斎場を出る鎌田のひつぎを先頭で担いだ。「証言運動も教育も核廃絶も…。しかも手を抜かない。運動体をつくり、集会を企画し、記録を残す。仕事が多すぎた。まねのできる業じゃない」
昨年九月十一日、米国で起きた同時テロ。鎌田はこれにも強烈に反応した。翌日には、共同代表を務める核兵器廃絶ナガサキ市民会議の声明文を書き上げ、無差別テロとともに、背景にある米国の独善を非難した。
病を押し、ほとんど一人で奔走して十月十四日、緊急シンポジウムを開いた。開会前、鎌田は「急ごしらえだが、急がないと意味がないから」と小さく笑った。それでも登壇者には大阪や福岡からを含む中東問題、軍事問題、憲法の専門家らをそろえていた。
「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」で実行委員長として、副委員長の鎌田と組んだ元長崎大学長、土山秀夫(76)は「鎌田さんは被爆者と生き、心情を理解していた一方、国際政治を見据えた全く論理的な核軍縮の主張もできた」と評した。核軍縮の論壇で鎌田と行動を共にした平和団体ピースデポ(本部横浜)代表、梅林宏道(64)も「被爆地からの提言は、国際的な説得力が格段に違う。鎌田さんの存在はにわかには埋め難い」と惜しむ。
無宗教の形で行われた通夜と告別式は、鎌田の同志たちが次々にマイクの前に立ち、その仕事の継承を誓った。しかし、それが簡単な作業でないことも皆が一様に付言した。去った鎌田が託した仕事の膨大さに、長崎の平和運動に携わる人々は今、立ちつくしている。 (敬称略)