非核不戦に生きて
 =鎌田定夫が残したもの= 中

平和公園の「核廃絶人類不戦の碑」に供花する鎌田(左から3人目)。碑は1981年、外国人戦争犠牲者を追悼するため鎌田ら有志が建立した=2001年8月15日、長崎市松山町

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非核不戦に生きて =鎌田定夫が残したもの= 中 「原爆とは何か」問い詰め 海外の被爆者調査先頭に

2002/03/01 掲載

非核不戦に生きて
 =鎌田定夫が残したもの= 中

平和公園の「核廃絶人類不戦の碑」に供花する鎌田(左から3人目)。碑は1981年、外国人戦争犠牲者を追悼するため鎌田ら有志が建立した=2001年8月15日、長崎市松山町

「原爆とは何か」問い詰め 海外の被爆者調査先頭に

国際電話で鎌田定夫の死を知った韓国大邱市の被爆者、金分順(74)は、電話口で泣き崩れた。「誰も自分たちに目もくれなかった時代に、鎌田さんだけは来てくれた…」

電話の主は、全国被爆二世団体連絡協議会会長の平野伸人(55)だった。韓国人被爆者の支援や交流のため頻繁に訪韓する平野を、病を抱える鎌田は「いつもうらやましがっていた」と言う。

外国人被爆者に最初の光が当てられたのは、戦後二十年を経た一九六五年。長崎市内で朝鮮人被爆者の遺骨の存在が確認され、納骨堂の建立運動が盛り上がった。それを機に、海外での被爆実態調査も加速し、鎌田らが先頭に立った。

七五年、鎌田は「長崎在外被爆者を支援する会」を結成し代表に。翌年、韓国人被爆者の来崎と治療を実現させた。

八〇年代後半になって、独自に韓国人被爆者の聞き取り調査を始めた平野は、あっけにとられたという。どこを訪ねても被爆者の口から出るのは、親愛の情を込めた「鎌田さん」の名だったからだ。

「僕には、人のために尽くす喜びがある。鎌田先生はどうだったろう」。平野はこう自問し、間を置いて言った。「『原爆とは何か』を極限まで問い詰めようとしたんじゃないか。外国人の被爆という違う視点からも、実像に迫らずにおれなかった。しかも被爆者を研究対象と割り切らず、とことん支援しながら」

鎌田が原爆を「違う角度」から見た先に、日本の加害と戦争責任があった。それを正面から問うことになったのが、二〇〇〇年十一月、長崎市で開かれた「日蘭戦争原爆展」。鎌田が企画した晩年の“大仕事”だった。

オランダ国立戦争資料館からの戦争展開催の打診を、市は「客観的内容なのか判断しかねる」などと突っぱねた。鎌田は怒った。「世界に核兵器廃絶を唱える長崎が、戦争から目を背けてよいのか。原爆被害ばかりを一方的に訴えて、共感は得られるのか」

病を押して、自ら開催を担おうと突っ走る鎌田。気おされるように、市民有志が実行委に加わった。展示内容は、かつて戦火を交えた日蘭の歴史、強制連行されたアジアの被爆者、長崎で原爆に遭った連合軍捕虜の姿など。「戦争と原爆」「加害と被害」をめぐる展示が、同じ空間に詰め込まれた。来場者は予想をはるかに超えた。

展示会を終えた鎌田は言った。「誰が最も悪く、誰が一番ひどい目に遭ったかを問い詰めるような感情論を超え、互いの痛みを共有する機会にしたかった。そうしないと、歴史の真実は見えてこない」

戦争原爆展は、平野を中心にオランダでの開催を模索している。開催実現は鎌田の“遺志”になった。(敬称略)