里 国雄さん(73) 北高戸石村(現在の長崎市上戸石町)で「被爆」「熱い」全身に光と爆風
旧街道沿いにあった自宅の庭には、大きなセンダンと杉が立っていた。夏には涼しい木陰をつくり、近所の子供たちの格好の遊び場だった。
あの日、庭でまきを割っていた里さんは突然、まぶしい熱線に全身を包まれた。「熱い」。思わず声を上げ、なたを放り投げた。直後に襲った強風に体はよろめき、庭の大木が大きく揺れた。
照り付けていた太陽は、長崎市中心部の方角から立ち上がった不気味な色の雲に隠れてしまった。「しばらくすると空からたくさんの燃えかすや灰が風に流されてきた。紙幣もあったが気持ち悪くて触れなかった」。センダンや杉も灰をかぶり、農作物の葉が白くなるほどだったという。
その時の風向きは、原爆投下と同時に米軍機から落とされたラジオゾンデ(爆圧等計測器)の落下地点が語っている。長崎原爆戦災誌(長崎市編さん)によると、落下傘につるされたラジオゾンデは爆心地の上空約四千メートルの高さから東へ流され、戸石村上川内(現在の長崎市川内町、爆心地から約一一・六キロ)など三カ所に落ちた。地図で見ると、三地点は爆心地からほぼ一直線上に並んでいるのが分かる。
里さんもあの日、白い落下傘が飛んでくるのを目撃している。一つは記録にもある川内町内に、もう一つは当時の自宅近くの山(戸石町内)に落ちたという。戸石町の落下傘がラジオゾンデだったのかどうかは、記録に残っていないため分からないが、「近所は『爆弾が飛んできた』と大騒ぎだった」。
近くで同じように光と灰を浴び、今年五月に八十歳で死去した義姉の髪は、戦後いつのころからか抜け始め、五十歳を迎えるころにはほとんど毛がない状態だった。「病院でも原因は分からず、本人は原爆の影響ではないかと悩み続けていた」
地形などを考慮した現在の被爆地域は、爆心地を中心に南北二十四キロ、東西十四キロのいびつな形になっている。未指定地域の住民や行政などは「爆心地から半径十二キロ円内は同様に扱ってほしい」と要望してきたが、国はこれまで「科学的、合理的根拠の低さ」を理由に否定的だった。
あの日、確かに熱い光と爆風を全身に受けた。「灰は自分たちが住む村にも飛んできた。今の被爆地域の線引きはだれが決めたんだ」。里さんは納得できない。
メ モ
◆ラジオゾンデ 原爆の威力、爆圧や熱度などを測定するために落とされた。長崎原爆戦災誌によると、三地点のうち最も爆心地に近い川内町には、九日の午前十一時半から正午ごろの間に落下したとされている。