橋川順子さん(74)西彼日見村(現在の長崎市宿町)で「被爆」 死の灰浴び脱毛の恐怖
一九四五年八月九日、長崎で被爆したのに、法律上は「被爆者」でない人たちがいる。被爆未指定地域住民の“悲願”である被爆地域拡大是正問題。厚生労働省の研究班は、焦点だった心的外傷後ストレス障害(PTSD)に関連し、未指定地域住民の心の傷の深さを指摘した。同省検討会は近くまとまる最終報告を受け、国への提言を予定。いよいよ審議は大詰めを迎える。被爆地の願いは国に届くのか。五十六年目の八月九日を前に、原爆投下時、未指定地域にいた「被爆者」たちを訪ねた。
あの日、長崎市の中心部へと向かう木炭バスは、待てども来なかった。故障で立ち往生したのか、理由は分からない。ただ、いつもなら歩いてでも動員先の工場に行くのに、その日はなぜかちゅうちょした。あのまま出掛けていたなら、運命はもっと過酷だったに違いない。橋川さんは、そう思うことがある。
時計の針が午前十一時を回り、庭へ薪を取りに戸口を出た直後だった。目がくらむほどの白い光が不意をついて襲い掛かった。「何だと思う間もなくドーンというものすごい音が鳴り響き、突風によろめいた」
記録に残っている、日見村や隣接の矢上村(地名はいずれも当時)などの住民の証言と同じように、橋川さんもこの後、焦げた紙切れや多量の灰が飛んでくるのを目撃する。やがて黒い雨が夕立のように降り始め、着ていた白いシャツに灰色のはん点ができた。
焦げた紙切れの一つを恐る恐る手に取ると、ノートらしきものに手書きの化学記号が並んでいた。「もしかすると長崎医科大(爆心地から約六百メートル、現在の長崎大医学部)がやられたのではないか」。被災に関する情報が全くなかったが、強烈な光といい、それが普通の爆弾ではないことは容易に想像できた。
不安は的中した。体の異変は一カ月過ぎたころから表れた。全身がだるく、くしを入れるたびに髪が抜け、三つ編みの束が日ごとに細くなっていった。「終戦直後で診てくれる医者もいない。原因が分からず、怖くてたまらなかった」。手鏡の向こうに笑顔はなかった。抜け毛の症状は四、五年で収まったが、今も貧血に悩まされている。
当時、被爆者に対する偏見は強かった。結婚後、約四年間暮らした東京では、橋川さんが長崎出身と知る知人から「原爆を受けた人からは奇形児が生まれるんでしょ」と言われたこともある。まだ幼かった二人の息子たちが差別を受けるのを恐れ、東京では親しい友人にさえ「原爆には遭っていない」とうそをつき通すしかなかった。
あの日の体験を他人に語れるようになったのは、長い歳月がたってからだ。今でも戦争を描いたドラマは見る気になれない。「原爆を体験した人がいつかこの世からいなくなり、未指定地域で起きた出来事が忘れ去られてしまうのが怖い。一日も早く被爆地域の指定を見直してほしい」。長い沈黙の時を経て、橋川さんは訴える。