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ナガサキの思想と永井隆 =没後50回目の夏に= 4 絶望の中で信仰の自由

2000/08/04 掲載

絶望の中で信仰の自由

「あの時、永井隆がなぜ、神の摂理という言葉を使ったのか。その背景を考えなければ、この論争はいつまでも深まることがない」
カトリック信者で元長崎市長の本島等(78)は再燃する永井隆論争について、そう語る。 原爆で信徒一万二千人のうち八千五百人が瞬時に犠牲となった浦上のカトリック教会。一九四五年十一月二十三日の原子爆弾死者浦上合同葬で、永井は信徒代表として弔辞を読んだ。

「原爆の惨禍をかろうじて生き残り、絶望にうちひしがれた信徒たちを前に、永井は神の摂理を持ち出して励ますしかなかった」

◆弾圧政策続く

本島はこの夏、「永井隆の再発見」と題する論文をまとめ上げた。その多くを浦上カトリックの受難の歴史の記述に割いている。

江戸時代、徳川幕府は苛烈(かれつ)なキリシタン弾圧政策を続けた。信徒は隠れキリシタンとなって信仰を守ったが、浦上では浦上一番崩れ(一六〇五)、二番崩れ(一八三九)、三番崩れ(一八五六)と呼ぶ迫害事件に見舞われた。

迫害は明治時代に入っても続いた。浦上四番崩れ。一八六八年、明治新政府はキリシタン弾圧の継続を表明、浦上村の全員を全国各地に流罪とした。

同七三年、キリシタン禁制が約二百六十年ぶりに解かれ、浦上キリシタンも帰郷した。だが、差別と迫害は終わらなかった。浦上に他地区の住民を移住させ、キリシタン監視網を敷くことまで行われた。

昭和になって戦争が始まると弾圧は一層厳しくなった。本島は、純心高等女学校の江角ヤス校長らの被爆体験をまとめた「焼身 長崎・純女学徒隊殉難の記録」(高木俊朗著)を示して、当時の状況を語る。

それによると、特高刑事や憲兵が学校に来ては言う。「お前たちの神様のキリストと天皇陛下と、どっちが上か下か」、「日本人なら日本人らしく、日本の神様を拝め」「この非常時にキリストを信仰しておったら、天皇陛下にそむくことだぞ」

学校では職員室に神棚を設けて拝んだ。修道女は修道服を着ることもできず、もんぺ姿になった。佐世保の教会では、憲兵が乗り込んできて建物の撤去を要求、それに呼応して右翼団体が教会攻撃の演説をして回った。各地の教会でも暴漢が侵入して暴れたり、信徒に脅迫状が送られてきたりしたが、だれも助けるものはいなかった。

信徒は「非国民」「売国奴」とののしられ、登校中の子供まで「スパイの子」と石を投げつけられた。

◆不幸にも感謝

一九四五年八月九日、貧困にあえぎ、スパイ、非国民と虐待され、差別と迫害を耐え忍んで戦時を生き抜いてきた浦上のカトリック信徒たちの頭上で、原子爆弾がさく裂した。親も子もきょうだいも失い、被爆の廃虚で茫然(ぼうぜん)自失する信徒たちに、こんどは「原爆は神社に参らなかった天罰だ」と悪罵(あくば)が浴びせられた。「神も仏もあるものか」と信仰が揺らぐ者も現れた。

「その時、永井隆は叫んだのだ」と本島は語る。「浦上は神に選ばれた。われわれが、みんなの苦しみを引き受けたのだ。みんなに代わって犠牲を引き受けたのだ、と」。

すべてを失った原子野で絶望に沈む信徒たちに、たった一つ、与えられたものがあった。それは初めて手にする信仰の自由だった。

本島は言う。「あの時、信徒代表としての永井に、ほかに言うべき、どんな言葉があったろうか。信徒を励まし再建に立ち上がらせるためには、ああ言うしかなかったのだ」

本島によれば、幸福も不幸も神から頂いたものとして感謝するのがカトリックの教えであるという。「それなら、原爆という不幸も神に感謝しながら乗り越えていこう。われわれには、その力があるはずだ、と永井は言いたかったに違いない」

浦上の丘で、永井の読み上げる弔辞を聞きながら、信徒たちは激しく泣いたという。(敬称略)