信徒への励ましが目的
長崎純心大学学長、片岡千鶴子は、高橋真司(長崎大学教授)の永井隆批判に対する反論を九六年、「被爆地長崎の再建」と題して刊行した。
片岡は「永井の言葉は、信徒に向かって述べた信仰の言葉」と強調。「永井がその言葉をどのような意味で使ったのか、という基本的洞察を欠いたまま、永井の真意とは懸け離れた意味を一方的に付与して批判が行われている。これは批判の仕方として間違っているのではないか」と言う。
片岡があえて反論に踏み切ったのには伏線がある。作家の井上ひさしが一九八七年に雑誌連載「ベストセラーの戦後史」で、永井の「長崎の鐘」を取り上げ、「原爆は神の摂理」に着目、辛らつな言葉で批判を展開しており、この連載をまとめた本が被爆五十周年の九五年に出版されたからだ。時を前後して被爆地長崎からは、高橋が同じ文脈で永井批判の声を上げた。
片岡は「神の摂理という永井の言葉を、信仰の言葉ではなく、政治的な意味合いに曲解した上で批判するという一連の永井批判のパターンが、戦後半世紀を経て相も変わらず踏襲されている。これは看過できないと考えた」と言う。
◆差別に苦しむ
片岡によると、永井が「神の摂理」という言葉を使ったのは、「原子爆弾死者浦上合同葬弔辞」を除けば、永井の膨大な著作の中でも「長崎の鐘」の中の「第十一章・壕舎の客」の一部分だけである。
「長崎の鐘」で、永井が「神の摂理」と説く件(くだり)には、重要な前段がある。永井を訪ねてきた一人の信徒が、「浦上に原爆が落とされたのは天罰」と悪口を言われる実情を嘆いて言う。「誰に会うても、こう言うですたい。原子爆弾は天罰。殺されたものは悪人だった。(中略)それじゃ、わたしの家内と子供は悪者でしたか!」
これを聞いて永井は初めて言う。「私はまるで反対の思想を持っています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな御摂理である」と。
原爆で浦上のカトリック信徒一万二千人のうち、八千五百人が一瞬のうちに犠牲になった。未曽有(みぞう)の惨害に苦しむ人々に対して、心ない市民から寄せられたのは、同情でもなければ、残虐な兵器使用に対する怒りの共有でもなかった。原爆を天罰とあざ笑い、カトリックへの差別意識をあらわにして被害者をののしる、歪(ゆが)んだ人間心理の表白でしかなかったのだ。浦上のカトリック信徒の絶望は察するに余りあろう。
しかも、そうした流言が信徒にも浸透し、「神はわれわれを罰して原爆を落とされた」という者まで出て来る状況だった。
◆死者を冒とく
片岡は「原爆による死が天罰という考え方は、死者への冒とくであり、カトリックの死生観に反する。永井はこの問題で心を痛め、黙過できないと思われたのだろう」と見る。
原爆天罰論を否定するためであったとしても、なぜ摂理という言葉を使ったのか。片岡は「そこから先は信仰にかかわる問題」と説明する。「カトリックには、人間の苦しみを、キリストの苦しみに合わせることによって価値あるものにしようという考えがある。摂理という言葉も含め、これらは信仰の問題であり、信仰と別の次元で議論の対象にされるのはおかしい」
「永井の言葉は、絶望する信徒に対して、信仰に基づいて浦上の再建に立ち上がろうと呼び掛けた、励ましの言葉にほかならない」
永井の言葉は原爆投下を容認したもの、という批判が繰り返されてきた。これに対し、片岡は「被爆直後、終戦直後のあの時代に、しかも信徒の励ましに心を砕いている永井に、戦争責任や原爆投下責任の免罪などということを考える余地があっただろうか。こうした批判は非現実的だ」と反論。「第一、永井の全作品に一貫する反原爆、戦争反対の叫びと、つじつまが合わないではないか」と話している。(敬称略)