批判のタブー化進む
永井隆の「原爆は神の摂理」との言説に対する長崎大学教授、高橋真司の批判に対して、長崎純心大学学長、片岡千鶴子が反論を発表。被爆から半世紀過ぎた長崎で「永井論争」が再燃した。この連載では、前回の高橋による永井批判に続いて、今回さらにもう一人、同様の観点から批判を行ってきた詩人、山田かんの永井論を紹介する。次回からはカトリックの側から見た永井論を、まず片岡千鶴子、次に元長崎市長、本島等の順に紹介していく。
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「原爆で七万余人が死に、生き残った被爆者も後遺症や貧困、差別で筆舌に尽くせぬ苦しみに耐えていた最も悲惨な時代に、なぜ、永井隆だけが、被爆者の代表のようにして饒舌(じょうぜつ)に語り続けているのか。それが不可解でならなかった」
◆被爆者の象徴
被爆者で諫早市在住の詩人、山田かん(69)は若き日々、強い疑問を抱きながら、ジャーナリズムに「浦上の聖者」ともてはやされる永井の姿を見ていた。
「被爆後まだ数年の長崎といえば、多くの被爆者が、のたうちまわって苦しみながら次々と死にゆく状況だった。なのに、なぜ、たった一人、永井だけが被爆者の象徴として、あがめ奉られ、代弁者のように語るのか。その差別的な関係を、長崎の被爆者市民は、なぜ、おかしいと感じないのか。それも疑問だった」
山田は、そうした不可解な状況を作りだした要因は、連合国の占領政策にあると見る。出版物の検閲を行い、連合国批判を厳しく押さえ込んでいた連合国総司令部(GHQ)は、永井の作品発表だけは認めた。
「センチメンタルな表現ばかりで、単に被爆者はかわいそう、という話にとどまっているから、認められたのだろう。永井の作品は国民の目を原爆の犯罪性からそらす役割を果たした。GHQは、永井を持ち上げ、永井批判をタブーにすることによって、一般の被爆者が原爆を告発することができないような状況を作り出したのだ」
そのタブー意識を醸成するのに格好の手段が、宗教上の教義を持ち出すことだった、と言う。「永井は原爆投下を神の摂理と呼んだ。摂理とはカトリックの教義の中の言葉であり、教義とは不可触のもので、疑問や批判を許さない。永井から“原爆は摂理だ、神のおぼしめしだ、犠牲者はいけにえの子羊だ”と言われると、原爆に対して何も言えなくなる。それはカトリック信徒のみならず、信徒以外の市民にまで影響し、その結果、原爆を告発する機会は久しく奪われた」
日本政府もまた戦後長い間、被爆者の存在から目をそむける“原爆棄民”と言うべき政策をとっていた、と山田は見る。「福田須磨子が原爆への激しい怒りを綴(つづ)った作品を発表したり、一般の被爆者の被爆体験手記が続々と発表されるようになるのは、ようやく一九六〇年代になってから。うち棄てられた被爆者が沈黙を破るまでには実に長い歳月を要した」
◆出発点の虚妄
被爆者の代弁者として早くから饒舌に語り続けた永井隆。その陰で長い沈黙を余儀なくされた被爆者大衆。「永井隆はまさに“招かれざる代弁者”だった」
山田はこうした考えをまとめた一文を七二年、「聖者・招かれざる代弁者」と題して雑誌に発表。初の正面切った永井批判として注目された。「一石を投じたつもりだったが、永井の虚像があまりにも大き過ぎたせいか、反応はなかった」
二十世紀最後の夏。山田が問題にしているのは、そのような作られた虚像を疑いもなく受け入れてきたナガサキの思想的な体質だ。「戦後民主主義の出発点で、強大な権力によって権威付けられたものの前にひれ伏してしまい、真実を見抜いて批評する文化人が長崎にはいなかった。あれから五十年、戦後の出発点の虚妄を、ナガサキは打破し得たのだろうか」(敬称略)