浦頭引揚記念資料館 130万人が帰国の第一歩
終戦直後、東彼崎針尾村浦頭(現・佐世保市針尾北町)にあった佐世保引揚援護局検疫所の跡地を見下ろす丘に「浦頭引揚記念資料館」はある。一九四五年十月から四年半の間に約百三十万人の軍人、民間人が旧満州、中国、朝鮮半島、東南アジアなどから船で引き揚げ、この地に帰国の第一歩をしるした。
館内には、持てるだけの荷物を手にした人であふれかえる上陸風景や、噴霧器で看護婦からDDT(殺虫剤)消毒を受ける引き揚げ者の写真、引き揚げ経路の模型、軍服、軍票、引き揚げ証明書など終戦を象徴する展示品が並ぶ。
資料館の管理人、肴場乕夫さん(77)=佐世保市針尾北町=は当時、同検疫所に勤め、主に引き揚げ船まで医者や看護婦を検疫艇で運ぶ仕事に携わった。「最盛期には港が船であふれた。検疫する船を探すのがひと苦労でした」
■苦労の末に…
検疫所前の桟橋で検疫官が「ご苦労さまでした」と声を掛けると、引き揚げ者は安ど感を漂わせ「ありがとうございます」「お世話になります」とお礼を言った。
「上陸の様子が一番印象深いですね」。館内を案内しながら、肴場さんは写真パネルの前で足を止めた。
展示資料は、肴場さんの体験と二重写しになる。
肴場さんは二十歳で出征し、ビルマ戦線へ。避難通路や陣地の構築に明け暮れ、多くの同僚が砲弾や銃弾で死んだ。遺体を埋葬する余裕などない。遺骨の代わりに戦友の指を切って持ち帰った。死への恐怖は敵も同じだ。中国人兵士は泣き叫びながら、日本軍の陣地に突進してきた。
そして終戦。タイのバンコクまで八カ月余りかけて歩いた。米軍のLST(上陸船)に約一カ月間揺られ、四六年六月十日、神奈川県・浦賀港に着いた。「船内で交わす会話は家族のことばかり。早岐駅で知人に声を掛けられ、やっと帰ってきた実感がわいた」
■遺骨や遺体も
「戦争に負けて情けなかった。死ぬ目に遭って、苦労して、揚げ句の果てにこれからの生活はどうなるのか」。肴場さんは、引き揚げ者の多くが自分と同じ気持ちだったと思う。祖国にしるした第一歩は、決して軽いものではなかった。
引き揚げ船内でのコレラの大量発生、栄養失調による衰弱死などもあり、四八年六月までの佐世保引揚援護局の遺体処理数は三千七百九十三体に上った。四九年一月には同局が米軍から旧軍人四千五百十五人の遺体、三百七柱の遺骨の引き渡しを受けた(同局史)。引き揚げ者の陰には、二度と祖国に戻ることのなかった人、無言の帰国者が数多くあった。
◆メモ
一九八六年五月開館。佐世保市が悲惨な引き揚げ体験を後世に伝え、世界の恒久平和を願って全国からの寄付金などで建設した。同市によると、来館者数は延べ四十九万千三百六十七人=七月末現在=で「年々減少傾向にある」という。開館時間午前9時~午後6時(11月~3月は午後5時閉館)。入場無料。〒859-3454、佐世保市針尾北町824