戦争を語る まちの資料館 1

「戦前の子供の生活を見て、考えてほしい」。高浪さんは「次代を担う子供」より、「戦争を知っている大人」をにらみつける =長崎市田上3丁目

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戦争を語る まちの資料館 1 少国民資料館 戦前の世代に怒り込め

2000/08/11 掲載

戦争を語る まちの資料館 1

「戦前の子供の生活を見て、考えてほしい」。高浪さんは「次代を担う子供」より、「戦争を知っている大人」をにらみつける =長崎市田上3丁目

少国民資料館 戦前の世代に怒り込め

五十五回目の終戦の日がやってくる。戦争の世紀が終わろうとしている。「戦前」が遠ざかり、戦争が風化するなか、当時を伝え、平和を願う小さな発信地になろうと、いまなお語り続ける街の資料館がある。繰り返された空襲、アジアに侵略した日本の姿、引き揚げ者が味わった悲惨、戦地に送り込まれた日本人たち―。展示を通じ、訴えかける資料館の語り手たちを追った。
あるじの高浪藤夫さん(67)が少年だったころの日常が、そこにある。一九四〇~四七年ごろのものを重点に文具、書籍、遊び道具、生活雑貨、台所用品―。部屋全体がセピア色に見える。

少国民資料館に入ると、「勝ち抜く僕等少国民」のメロディーが流れている。「少国民」と呼ばれた子供の目に映った日常をそのまま再現しようと、床、壁、天井までもが、当時の品で埋め尽くされている。

■児童の供養を

四五年三月、福岡県朝倉郡立石村(当時)にあった立石国民学校の児童三十五人が空襲で死んだ。高浪さんは隣の国民学校の六年生だった。衝撃を受けた。供養したい、という気持ちを戦後ずっと引きずった。

資料館の開設は、死んだ立石国民学校の子供たちを慰霊する目的もあった。甘木へ行って、子供たちの成人式をやろう、還暦の行事をやろう、と呼び掛けたこともあったが、うまくいかなかった。

「ほんの十歳ぐらいで死んだんですよ。うまいものも食わず大人にもならず。戦争のためにたくさんの子供たちが。何十年も生きた私たちが、そういう人たちを忘れてしまっていいのか」

その話から、戦争を後世に伝える―という意気込みは感じられない。

体験した戦争を忘れかけている戦前世代や、「戦争を軽く考えているとしか思えない近年の政治家」に対する怒りの言葉が続く。戦意高揚のスローガンが躍るポスターや雑誌類が、これでもかと並ぶ館内には、戦前を忘れまいとする高浪さんの執念がみなぎる。

玄関先に「空襲警報発令中」の木板と日の丸。展示には昭和天皇ご夫妻の写真、日本軍の進撃を伝える新聞もある。「右翼のおじさんと言われることもあるが」。だが「左翼」でもない。

■九条は大切に

核廃絶運動に共鳴するが、「勝ち抜く僕等少国民」を聞くと気持ちが高揚する。「それが軍国少年だった私の子供時代の真実だから」だ。戦前盛んに言われた「一億一心」は、穏やかで平和な言葉だと今でも思うが、軍隊は好きでない。「あの戦争の反省に立つなら、憲法九条は大切にしてほしい」

団体での運動には参加しない。「自分はたった一人で何をやっているんだ」と気力が萎(な)え、資料館を閉めたこともあるが、見学したいという小学生の来訪を機に再開した。展示は懐古趣味でもないが、反面教師でもない。「右でも左でもなく、バランスをとる垂直尾翼になる」。高浪さんはそう言った。

◆メモ
一九九〇年開館。展示は「少国民の部屋」と、画家・谷内六郎氏の作品を集めた「平和の部屋」の2コーナー。高浪さんによると、見学者は「非常に少ない」。〒851-0251、長崎市田上3丁目17の47。