滝川セキさん(77)=長崎市城山町=平和運動を受け継いで
「反核・平和の訴えを受け継いでくれる人は、いつかいなくなるのかもしれない」。そんな不安を感じている。
若い人はどうしたら目を向けてくれるだろうか。「みんな仕事もあるだろうし、考え方も違う。無理強いはできない」。どうすればいいか分からない。ただ、自身はこれからも、いつまでも訴え続けようと決めている。あの日の惨状を目に焼き付けた一人として…。
原爆投下の二日後、長崎市に入り被爆。同市駒場町(現松山町)の自宅付近で遭遇した光景は、想像を絶した。「浦上川に、まるで指を並べたように大勢の人が折り重なって力尽きていた」。街並みは跡形もなく「たった一発の爆弾で、ここまで焼き尽くされるなんて」と、ただ驚くばかりだった。
■夫とともに
出征していた前夫は戦死。戦後再婚した夫の勝さんも入市被爆者。一九五六年発足した長崎原爆被災者協議会の副会長などを務め、国に被爆者援護を求める運動などに長く取り組んだ。精力的に活動する夫とともに、全国を飛び回った。
「原爆で苦しむ多くの人を見てきた夫は、被爆者のために一生懸命だった」。そんな勝さんも八二年、八十四歳で亡くなった。
夫の死後、「火を消すわけにはいかない。何かしなければ」と遺志を継いだ。今も毎年八月九日、原爆死没者を慰霊する浦上川での「万灯流し」などに足を運ぶ。核実験への抗議行動にも、できる限り参加する。
九五年に無期限延長された核拡散防止条約(NPT)。九六年には包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択された。今年のNPT再検討会議では「核兵器廃絶に向けた明確な約束」が採択された。国際社会は核軍縮へと少しずつ歩を進めている。
■去らぬ脅威
しかし、米国はCTBT採択後も、臨界前核実験を繰り返す。さらにインド、パキスタンが相次いで地下核実験を強行(九八年)、核の脅威は去らない。「頑張ってきたつもりだけれど、私が生きている間に核兵器はなくならないだろう」。絶望的な予感がある。
被爆者の高齢化もセキさんを弱気にさせる。「抗議行動に行っても、お年寄りばかり。被爆体験のない人にはピンとこないんでしょうね」。それでも「若い人に反核・平和運動を受け継いでもらいたい」と願わずにはいられない。
核兵器や戦争を抱えたまま、二十一世紀を迎えようとしている人類。「核兵器をなくさない限り、被爆者の苦しみは永遠に消えないのに…」。うつろに響くセキさんのつぶやきに、二十一世紀を生きる次の世代はどう答えればいいのだろうか。それぞれが思いを巡らす二十世紀最後の八月九日が迫った。