坂本フミエさん(69)=西彼香焼町=国に責任認めさせたい
三十数年前、「人に誘われ、見物気分で」参加した3・1ビキニデーの集会。そこで、重病に苦しむ被爆二世の少女に出会った。「原爆は、あとから生まれた子供にも、孫にも降りかかる。苦しむのは被爆した自分だけではない」。衝撃を受けた。そして、被爆者運動に加わった。
■祝福なし
一九九四年十二月、被爆者援護法案が国会で成立。被爆地長崎では「被爆者が求めていた被爆者援護法ではない」と怒りが渦巻いた。翌九五年七月、被爆者の“悲願”だったはずの同法は、祝福されないまま施行された。
「『国家補償』の一言を入れてくれていれば…。国が戦争責任をはっきりと認めて、被爆者に補償する―という姿勢を法律に書くことが、一番重要なのに。そうしてくれれば、実際の補償額なんかどうでもいい」
法制定を目指す長崎原爆被災者協議会の仲間たちとともに東京へ通い、厚生省に訴え続けた。だが、法案の修正を繰り返し求めた被爆者団体の行動は実を結ばなかった。
十四歳の夏だった。自宅にいた坂本さんを原爆のせん光が襲った。爆風で屋根も壁も、家具までもが吹き飛ばされ、柱とはりだけが残った。両腕と両足に重度のやけどを負いながら、必死で裏山へ逃げた。
多くの人が避難していた。断片の記憶しかない。腰を下ろした隣に、両わきを抱えられた男子学生が運ばれてきた。えぐり取られた胸の肉の奥に、ピンク色にうごめく心臓が見えた。「おかあさん…」。そうつぶやいて学生は息絶えた。
翌朝、目が覚めると、あたり一面に死体が並んでいた。避難した人たちが次々に亡くなったのだろう。
一人で座り続け、母を待った。母親に助けられた後も、何日も生死の境をさまよった。その年の暮れまで立つこともできなかった。
今も、病名もはっきりしない体調不良が続く。外出先で動けなくなることが頻繁にある。足のケロイドが目立たなくなり、抵抗なくスカートを着られるようになったのは、ほんの五年前だ。
■まやかし
援護法成立で、原爆被害に対する社会の関心が薄れた気がする。「自民党政権では法律自体できなかっただろう。自社さ連立だったから、なんとか法律ができたとも言える。でも今の法律はまやかし。ごまかされないで、と叫びたい」
「あの戦争の責任を認めないのなら、国家は次の戦争だって起こせる」。そう思うから、援護法にこだわる。「原爆以外の戦争被害者に対しても同じ。この戦争被害に国がどう向き合うか―」。戦争責任を認めない国の姿勢を、いつまでも「追及していく」と言う。