廬在明さん(78)=韓国仁川市=日韓2世が語り継いで
時代の苦難が、いつも覆いかぶさってきた。日本でも、故郷の朝鮮半島でも。
被爆したのは、三菱長崎造船所。故郷の平安南道(現在の朝鮮民主主義人民共和国平壌付近)から長崎に強制連行されて、約一年後だった。近くのトンネルに逃げ込み、命は助かった。
■戦争の痛手
その約一カ月後、帰国。故郷に戻り、農業などを営みながら家族八人の生活を支えた。だが、平穏な日々は長くは続かなかった。
一九五〇年、朝鮮戦争ぼっ発。混乱の中、両親などを半島北部に残し、一人で南の都市を転々とした。家族との南北の距離は、やがて北緯三八度線を境に無限と思えるほど広がった。
「北」と「南」の家族離散。「残してきた家族のことを考えるととてもつらい。生きているのかどうか…。生きていても、裕福ではない自分には、援助さえできない」
強制連行から始まった戦争の痛手。戦争がもたらしたのは、苦痛と貧しさだけだった。「もう思い出したくない」。大工をして家族を養うために精いっぱい生きた。
被爆から四十年余りがたった八八年。被爆者としての自分を見詰め直す機会が訪れた。訪韓した県被爆二世教職員の会(平野伸人会長)が、在韓被爆者の実態をつぶさに調査。被爆者であることが初めて分かった人さえいた。強制連行した日本だが、同じ原爆の悲劇を体験した長崎からの調査団でもある。「韓国人被爆者のために、遠くから来てくれる日本人がいる」。感激した。
九五年、知人の紹介で受けた日本の被爆二世による聞き取り調査をきっかけに、長崎市で被爆者健康手帳を手にした。戦時中にひどく扱った日本人への嫌悪感は、次第に薄れた。
■なぜ差別が
もう、年を取った。最近は疲れやすく、胃痛もひどい。医療が欠かせない身だが、韓国にいると被爆者援護法が適用されない現実が立ちはだかる。「被爆でつらい目に遭ったのは日本人も韓国人も同じ。なぜ差別があるのか」。日本の被爆二世の温かい支援がある一方、日本政府に対する不信は今も消えない。
先月、日韓の被爆二世が韓国で初めてシンポジウムを開き、在韓被爆者問題を解決しようと誓い合った。会場の片隅に座り、思った。「もうすぐ、悲惨な体験を語れる被爆者はいなくなる。二十世紀の終わりに、韓日の被爆二世のみんなが手を取り合った。素晴らしいことだ」
南北朝鮮の壁、日韓被爆者の間に横たわる援護の格差―。越えがたい“境界線”を見てきた目に、国境なき協力は頼もしく映る。そうした二世たちに、過去の歴史を語り継いでほしいと願う。
今では妻と三人の子供、八人の孫、一人のひ孫に恵まれている。決して楽な暮らしではなかったが、ようやくつかんだ幸せである。