西村勇夫さん(66)=長崎市辻町=平和は必ず訪れる
「神がいるなら、なぜ奇跡を起こしてくれなかったのか」
十一歳で被爆したカトリック信者は、こう訴えたかった。
今でも、原爆のことなど、語りたくない。「夏になると、焼き尽くされ、力尽きた被爆者が転がっていた辺りの光景を思い出す。考えただけで体の力が抜ける」―。そんな西村さんが初めて被爆体験を語ったのは、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が長崎を訪れた一九八一年のことだった。
山里国民学校(現在の市立山里小学校)在学中、自宅で被爆。直前まで笑い合っていた友人も、近所の人も亡くなった。一緒に暮らしていた四人の姉のうち、爆心地近くで働いていた二人も帰らぬ人に。
■不幸な時代
悲しみに暮れ、姉の帰りをいつまでも待っていた母の姿を覚えている。食べるものもなかった。「夢も希望もない。不幸な時代に生まれた」。あきらめるほかなかった。
法王の来崎が決まった八〇年、木工職人として身を立てていた西村さんは、法王が長崎で使う祈とう台を製作することに。感激し、信者として、被爆者としての思いをぶつけた。
「戦争は人間の仕業です」。来日した法王の言葉は、西村さんの中に「戦争が人間の生み出すものなら、人間の力で戦争をやめることもできるはず。平和は必ず訪れる」との希望をよみがえらせた。しかし「被爆体験を語るなど、つらくてできない」との思いは変わらなかった。
■体験を語る
体験を語るきっかけは、その年の夏、訪れた。原爆から生き残った恩師に、山里小に呼び出された。行くと、大勢の子供を前に被爆体験について質問された。「はめられたと思った」。子供たちは、修学旅行で来た大阪の中学生。一つ一つ恩師の質問に答えるにつれ、あの日の悲しみを思い出してつらかった。
だが、後日届いた感想文が、かたくなだった西村さんの心に染み込んだ。「子供たちは自分のつらさ、悲しさを、原爆の恐ろしさを真剣に受け止めてくれた。核兵器をなくしたい、と書いてくれた」。以来毎年、大阪から修学旅行で長崎を訪れる中学校の生徒に、被爆体験を話してきた。母校である山里小の児童にも聞かせるようになった。
十年ほど前に大病を患い、体調は思わしくない。「天国の同級生も、よくやったと言ってくれるだろう。もう被爆体験を話すのはやめよう」とも思う。
だが、数えきれないほど集まった子供たちの感想文を見て、今年も「体の調子がよければ話そう」と思い直した。会って子供たちを励ましたい。「君たちが大きくなれば、きっと戦争も核兵器もなくなる世の中は実現できるよ」と。