岩松博泰さん(68)=長崎市女の都3丁目=反核運動の力信じて
一九七八年五月、核兵器廃絶を目指す世界中の非政府組織(NGO)が米国ニューヨークに集結した。初めて開かれた国連軍縮特別総会。日本からも約五百人の代表団が乗り込んだ。岩松さんは国労代表団九人の一員だった。
東西冷戦と米ソの核軍拡競争はピークに達しようとしていた。「一被爆者の声をニューヨークで聞いてもらえるのか」。不安なまま参加したが、現地のデモ行進の人の多さに驚き、ホッとした。「アメリカにも反核の人がこんなにいるんだな」と。
国連のウルグアイ代表部を訪ねた際は、自らの被爆体験を語り、核廃絶の主張に加わるよう要請した。米国の鉄道労組の幹部と懇談することもできた。
■独りぼっち
これまでの人生は、鉄道とともにあった。
戦時中、国鉄マンだった父が病死し、兄の一人は応召。一家五人が長崎市に残った。母が踏切警手で、竹岩橋踏切横の宿舎に住んでいた。原爆のせん光を受けたのも、学徒動員で働いていた長与駅構内の工事現場だった。
原爆投下から数時間後―。救援列車を通すには、線路上のがれきを除去しなければならない。ガソリンで走る小さなモーターカーに乗せられ、国鉄職員らとともに市内に入り、障害物を必死で片付けた。大橋から先へ行くことはできなかった。線路の近くにいたけが人を乗せて帰るのが精いっぱいだった。
翌日、踏切横の自宅に戻ると、倒れた家のそばで、母とその胸に抱かれた弟が死んでいた。かわいがっていた犬も死んでいた。他の姉兄は骨も見つからなかった。「もうぼくは独りぼっちだ」。中学二年の岩松さんは、ただ泣いた。
「復員した兄と会ったときは、うれしくて胸に飛び込んだ」。二人とも国鉄に採用され、保線の仕事に就いた。国労で平和運動に加わった。国連総会に行くことができたのも、組合活動が縁だった。「息子もJR職員。うちは国鉄一家なんですよ」
■流れ導いた
二十二年前、アメリカで参加した反核の祭典は、無駄ではなかったと今も思う。冷戦は崩壊し、核保有国が核軍縮を論じるようになった。「世界が自然に変わったわけじゃないでしょう。核廃絶を願う運動の積み重ねが、現在の流れをつくったと信じたい」
今も竹岩橋踏切を通るとき、平静な気持ちではいられない。「体の半分が焼けた母が小学一年の弟を抱き、二人で死んでいた姿は一生忘れない」。戦争の悲しみを伝える教育が、絶対に必要だと考えている。だが、自分の孫には話していない。「そろそろ話さんといかんですね…」。そう思うようになってきた。