金城文栄さん(72)=沖縄市園田=核も基地もない世界を
「原爆を投下した米国に統治された沖縄で、つらい思いをした。同じ被爆者なのになぜ沖縄だけ、と思うこともたびたびだった」
■困窮の日々
長崎で被爆し、古里の沖縄で被爆者援護、反核平和を訴え続ける金城さん。その半生は、戦後、国家間の思惑にほんろうされ、今も基地など負の遺産を背負った沖縄の歴史と重なり合う。
沖縄県内の被爆者は、一九九九年度末で三百三十七人。戦時中、三菱長崎造船所で働き、あの日、爆心地から約三・二キロの長崎市水の浦町で被爆した金城さんも、その一人だ。幸いけがはなく、被爆の翌年、沖縄に戻った。
父は戦地で死亡。ほかの家族は無事だった。自宅があった場所は焼け野原にされ、米軍用地になっていた。人間らしい暮らしもできない困窮の日々…。「古里を焼き、原爆を落とした米軍のために働きたくなかった」。だが、ほかに仕事はない。米軍に雇われて働いた。みじめな「屈辱感」。それに耐えた。
原爆について、流言飛語も飛び交った。そして、被爆者はひどく忌み嫌われた。「“黙して語らず”でないと暮らせなかった」。被爆者であることで苦しんだ。
■周囲の視線
六四年、仲間の被爆者と沖縄原爆被害者連盟(現在の沖縄県原爆被爆者協議会)を設立。本土では既に五七年から被爆者手帳の交付が始まっていた。政府が違うため何の援護もなかった沖縄で、同様の施策を求めようと立ち上がった。
すると「被爆者だったのか」という周囲の視線が突き刺さった。「原爆が何だ。沖縄戦はもっとひどかった」。そんな言葉を浴びせられたこともあった。
「平和を求める心はみんな同じ。でも、米国の統治下にあった沖縄では、長崎、広島で一瞬にして多くの人間が殺されたことや、被爆者が体に爆弾(放射線障害)を抱えていることは、だれも聞かされていなかった」。原爆についての無知、被爆者に対する差別…。「どんなことがあっても戦争は起こしてはいけない」。つくづく思った。
六七年、琉球政府はようやく本土並みの被爆者手帳を交付。七九年、国はやっと、一律二十万円の見舞金を認めた。それは、七二年の本土復帰の後だった。
被爆者の高齢化は、沖縄も同じ。「沖縄で、次の世代に被爆者の訴えを引き継ぐのは困難。われわれで終わりだろう」。そうした思いが頭をよぎる。だが、あの日の光景を今も子供たちに語り続ける。「長崎と沖縄の体験を共に受け継いでほしい。そしていつか、沖縄の子供たちが長崎を訪れてくれれば」
主要国首脳会議(沖縄サミット)を翌日に控えた今年七月二十日。米軍嘉手納基地を囲んだ二万七千人の「人間の鎖」の中に、金城さんはいた。核も基地もない平和な二十一世紀を願って―。