崎田照夫さん(71)=長崎市天神町=崎田照夫さん(71)=長崎市天神町=
十数回の入退院を繰り返した。長崎の「反核平和」の叫びは、どこか遠くで響いているようだった。
■激痛絶えず
「体が万力(まんりき)で押しつぶされ、血がわき立つような痛みに年中襲われた。入院のたびに死と向き合い、生活も食べるのに精いっぱい。平和を考える余裕なんて、なかった」
十六歳の時、爆心地から一・六キロの自宅で被爆。上半身に大やけどを負いながら逃げ回り、三日目にやっと家族と出会った。その途端、気絶した。身を引き裂くような激痛が絶えず、三年間寝たきりだった。
やっと就職しても、人生は軌道に乗らない。「入院と同じくらいの数の職場を転々とした」。白血球減少症などの大病を次々と患い、そのたびに職を辞めた。医者はある日、「あなたの病気は、ずっとこの繰り返しだろう」と打ち明けた。
「一般国民と被爆者の生活、健康には有意の格差はない」。一九六七年、厚生省は被爆者調査の結果をまとめた「原爆白書」でこう言い切った。被爆者や市民は猛反発し、自身の手で白書を作る運動を開始。六九年に「長崎の証言」が創刊された。
被爆者の苦痛を頭から否定した国。怒った被爆者は、証言することで赤裸々な体験と苦しみを世に訴えた。しかし、崎田さんはそのはざまで沈黙していた。
既に六〇年ごろから「自分史」を書こうと何度も思っていた。だが、そのたびにやめた。「被爆者であることの負い目がある。人に見せるようなものは書けない」。そう割り切っていた。
■40年の沈黙
被爆体験に口を開いたのは被爆から約四十年後の八三年からだ。「体験講話の人手が足りないから」と説得され、入退院を繰り返しながら続けた。長崎の証言の会が発行する「証言」にも何度か寄稿した。
すると、いじめを受けているという子供から、手紙が届いた。「崎田さんの話を聞いて、私の悩みはまだ軽いと思いました。こんなことで自殺を考えたらいけないですね」と。「私の話を、今の自分と重ね合わせながら聞く子もいる」と気付かされた。被爆から約半世紀を経て、苦しみに共感する声が聞こえた。図らずも、それは若い人から―。
「焼け野原を逃げ回っていたとき、周りの人を助けようと思っても助けきれなかった。この一生消えない心の傷を、今の人たちに受け止めてほしい」。今も年に数回、絶えられない激痛が全身を襲う。原爆が心と体に残した傷は大きすぎる。しかし、この痛みが次世代の心を揺り動かすと、今は信じている。