21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 4

「平和に鈍感な人たちに、本当に戦争の悲惨さを知っているのか、と問いたい」。原爆の記憶をよみがえらせるキョウチクトウのそばに立つ佐野さん=長崎市公会堂前

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21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 4 佐野 信さん(83)=長崎市寺町=赤い花に記憶重なる

2000/07/31 掲載

21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 4

「平和に鈍感な人たちに、本当に戦争の悲惨さを知っているのか、と問いたい」。原爆の記憶をよみがえらせるキョウチクトウのそばに立つ佐野さん=長崎市公会堂前

佐野 信さん(83)=長崎市寺町=赤い花に記憶重なる

夏になると、必ず婦人会の仲間たちと平和行進に参加した。

「原爆が落ちた日も暑かったでしょう。あのときも、真っ赤に咲いてたんですよ。ほんとに赤かった」

長崎市公会堂の前庭にあるキョウチクトウが赤い花をつけている。行進がそこへさしかかると、いつも被爆当時を思い出した。

東西冷戦の一九六〇年代。米ソ対立の構図を映した国内政治の激動が、原水禁運動をほんろうした。

保守系勢力や旧民社党系が背を向け、ついには旧社会党・旧総評系と共産党系の対立も決定的となり、運動母体の原水爆禁止日本協議会(原水協)は分裂した。

党派横断の願いとして出発した運動は、開始から十年余りを経て、国民的なうねりの様相を失った。婦人会、生協、青年団などが原水協から離れていった。

■ただ、行動を

佐野さんが長崎市婦人会の事務局に勤め始めたころ、既に原水協は分裂したあとだった。七七年、統一大会が実現し、婦人会も参加した。それも八五年で終わり、団体ごとの運動に戻った。

「分裂したり、統一したりは、いろんな事情があったんでしょうね。けど私にはそんなことはどうでもよかった。みんな一緒でも、婦人会だけでもいい。ただ、行動がしたかった」

「あの日」―。空襲警報が鳴った。勤め先の幼稚園で、帰宅する子供たちを見送った。自宅に戻り、裏山の畑へ出掛けたところで被爆。翌日、園児たちの安否を求め、街へ出た。

公会堂の赤い花が目に入った。街は廃虚だった。歩き回るうち、園児たちの死を知った。すべてがキョウチクトウの赤さと重なり合って、鮮烈な記憶となった。

「平和運動なんかして何になるか、とよく言われました」。そのたびに思った。ほんとうに戦争を知っているのか。五年も生きぬままに死んでいく子供の悲惨さを。それを目の当たりにする親の悲しみを。食べ物のない生活の苦しさを。平和に鈍感になる不幸を。あの戦争でアメリカだってたくさんの人が死んだ。勝っても何にもならん―。

「佐世保にアメリカの潜水艦が来たら抗議する人たちがおるでしょう。ああいうふうに、ずっと運動せんば。あの人たちをばかにするようになったら、世の中はおしまいですよ」

■言葉を残す

若いときから入退院を繰り返した。放射能の影におびえつづける人生。足も不自由になり、もう行進には出られない。だから、しゃべり続けなければならないと思っている。「平和には労力も金もかかる。そのために貧乏してもいいじゃないですか。私はおしゃべりなんです。言葉を残さんといかんから」