中村新七さん(81)=長崎市八百屋町=詩で原爆と社会告発
「戦争映画/それが戦争をのろう映画であろうと/君はかぶりを横にふる/…目をとじ耳をふさぎながらも/原爆の悲惨さを会う人ごとに訴える」
一九五二年、長崎市の労働者を中心に創刊された文学サークル誌「芽だち」は、原水爆反対の特集を次々と組んだ。会員は約二百人。西彼香焼町で被爆し、編集責任者だった中村さんは、原爆と戦争への怒りを詩にぶつけた。戦争を連想させるすべてを拒絶する被爆者の「君」、つまり妻シヅヱさんの姿は痛々しい。
「出発は、労働者のサークル運動。社会を変えたい、自分たちが望む世の中にしたいと燃えていた」
■怒りの世論
終戦から三年後、県庁に入った中村さんは、わずか一年で「定数条例」により解雇された。レッドパージ策が取られる直前、思想的な抑制が強まったころだ。やがて夫婦で食堂を始め、社会を労働者の目で直視するようになる。
五四年、米国がビキニ環礁で水爆実験。漁船「第五福竜丸」が“死の灰”を浴びた。怒りの世論は一気に高まる。五五年、広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、翌年には長崎で第二回大会。その年に、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が発足。五〇年代後半は、被爆者と市民が、反核と補償要求を旗印に力を結集した時代だった。
文学にも力がみなぎった。プレスコード(報道規制)は解かれたが、反米的行動に公安当局の目が光る。それでも「芽だち」の会員は反原爆詩を次々発表。長崎の原水禁大会などにも進んで参加した。
「抑圧があるからサークルは結束を強め『こんな世の中、変えよう』と可能性を信じた」。そして社会を告発する時、視線は原爆に向かった。
「戦争を早く終わらせたなんて、アメリカのそんな理屈はまかり通らない。一瞬で何万人を殺し、生き残った者を放射線で苦しませる。自分の国のためなら、それが許されるのか」。原爆への怒りは、人間社会のエゴの告発に直結した。
■人間のエゴ
中村さんらはやがて、社会派の新劇に傾倒、長崎市民劇場の運営も担った。「芽だち」は、メンバーの文化活動が幅を広げていく中、三十八冊を残して五九年に終刊した。
原爆で知ったこと。それは「人間は自分の利益のためなら、何でもしでかす」ということだ。今も、世間を騒がす大企業の無責任さなどを見るにつけ、そんな思いがわき起こる。「人を人とみなさないのが原爆だった。そのエゴは今につながってる」と。
原爆の悲惨さを知るのも大切だと思っている。それだけではない。「怖い、かわいそうで終わってほしくない。原爆がなぜ落とされたのか考え、人間の罪と恐ろしさを知ってほしい」