21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 2

病床に伏した永井博士が執筆活動を続けた如己堂にたつ久松さん。「息子の誠一さんと私が背比べするのを、先生は布団からうれしそうに見てました」=長崎市上野町

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21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 2 久松シソノさん(76)=長崎市橋口町=永井博士を語り継ぐ

2000/07/29 掲載

21世紀を生きる人へ = 被爆者からの伝言 = 2

病床に伏した永井博士が執筆活動を続けた如己堂にたつ久松さん。「息子の誠一さんと私が背比べするのを、先生は布団からうれしそうに見てました」=長崎市上野町

久松シソノさん(76)=長崎市橋口町=永井博士を語り継ぐ

「浦上の聖者」とたたえられ、愛と平和の思想を説いた永井隆博士(一九〇八~五一)。来年、没後五十年を迎える。博士の最期をみとった久松さんは、その死を思うとき、忘れられない場面が浮かぶ。

原爆投下直後から、博士は長崎市西浦上の三ツ山の丘で医療隊を指揮。二十二歳の若い婦長だった久松さんは、被爆した身ながら、博士らとともに救護活動を続けた。

■「天国に行く」

多数の負傷者で埋め尽くされた救護所。その片隅で、放射線障害が出ている四十歳くらいの女性が、博士と会話をしていた。

「先生、お世話になりました。ご恩返しできません。天国にまいります」

「天国っていいだろうな。先に行ってらっしゃいよ。僕は後で行くから」

そばにいた久松さんは、黙っていられなかった。「弱気にならずに、頑張りましょうよ」。すかさず女性を励ました。その場を離れた途端、博士からののしられた。「このバカが。天国に行くという人に、君は…」。つい、言い争った。「先生こそ。一人でも命を救おうとしてるのに何ですか」。最初で最後の、ほんの短い衝突だった。

博士は被爆前、既に白血病に侵され、「余命三年」と言い渡されていた身。その博士に突き付けた言葉を今も悔いる。「がん告知の話を聞くと、先生を思い出すんです。死の宣告をどう受け止めてたんでしょうね。今ならもっとましな言葉を掛けられたのに…」

戦後も看護の道を一直線に歩んだ久松さん。十五年前の退職を機に、にわかに動きだした。永井博士の顕彰活動をする「長崎如己の会」を発足時から支え、長崎市内の小学生、県外からの修学旅行生らに博士について語る。依頼を断ったことは一度もない。

■命の続くまで

久松さんが思い描く永井隆像は「聖者」というよりも、何事も「どんと来い」と受け止め、機転が利き、ユーモアあふれる男性だ。亡くなる前、二児の将来を案じて「十分でも五分でも長く生きてたいなあ」とつぶやく普通の父親の顔も何度となく見た。遠くの思想家ではなかった。

七十歳をとうに過ぎたが、あの口論で逆上した博士の心境と、その奥にある死生観はよくつかめずにいる。「もっとましな言葉」とは何だったのか、今も分からない。ただ、博士の徹底した生き方だけを「命の続くまで」語り継ぎたいと思う。

「私に平和を説くことはできないけど、若い人に『力いっぱい生きて』とは言える。それが先生の姿だから。それだけは、自信持ってるんです」