暮らしの中の原爆遺構 6(完)

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暮らしの中の原爆遺構 6(完) 傾いた門柱=長崎市清水町・爆心地から1.3キロ= ずれた石垣も当時のまま

2000/08/09 掲載

暮らしの中の原爆遺構 6(完)

傾いた門柱=長崎市清水町・爆心地から1.3キロ= ずれた石垣も当時のまま

長崎市清水町の照円寺の参道から数分歩いた、高い木々がうっそうと茂る森のそばにある一軒の家。高さ一メートル、三十センチ四方のその家の門柱は右側と後ろにそれぞれ五センチずつ傾き、そこにつながる石垣はあちこちがずれている。
「原爆はすごい破壊力。戦争なんてばかげている」。家主の中村正興さん(74)は小さい声だが強い口調で言った。一九四五年八月九日、家には中村さんの母親たち五人がいた。そのうち庭で被爆した親類の一人は死亡した。門前には、三菱兵器大橋工場で被爆して逃れてきた人たちが何人も横たわっていたというサツマ芋畑がある。

横浜専門学校(現神奈川大学)の学生だった中村さんは徴兵され、「大村第四七部隊に所属し、北高飯盛町の山中でタコツボ掘りの任務に当たっていた。その時、長崎市の方向にせん光ときのこ雲を見た」と当時を振り返る。二カ月後、長崎に帰ったが家は焼失、灰がうず高く積もっていた。それでも門柱と石垣は残り、戦後、その場所に家を再建した。

時代は流れ、家から見下ろす町の風景も大きく変わった。しかし、門柱も石垣も、そしてサツマ芋畑も当時のままにしている。「二度とないであろう惨事を記憶にとどめねば」という考えからだ。

傾いたままの門柱は原爆の威力を無言のうちに物語り、戦争の愚かさを伝える。戦場に散った専門学校の同期生を思うと口が重くなり、戦争体験を語らなかった中村さん。しかし、二十世紀最後の原爆の日、終戦記念日を迎え「孫たちには門柱の話とともに伝えていかねば」と今は思っている。