耐えた ツバキ=長崎市石神町・爆心地から1.8キロ=はげ落ちた幹の皮
本原通りに面した閑静な住宅地への入り口。井手耕作さん(68)宅の約三百三十平方メートルの庭にはカシやクスノキなど約五十本の樹木が並ぶ。
その片隅にある高さ約三メートルの八重ツバキは、まるで大やけどを負ったように、直径三十センチの幹の皮が約七十センチにわたりはげ落ちている。それでも毎春、真っ白くかれんな花を咲かせ続けている。
被爆前には、寄り添うように高さ約四メートルのサザンカの木があったが、二十年後に枯れてしまった。「サザンカがかばってくれたのかもしれない。でもツバキは大した生命力ですね」と井手さん。
一九四五年八月九日、旧制瓊浦中二年生の動員学徒だった井手さんは自宅で被爆。せん光が走った次の瞬間、爆風に飛ばされ気を失った。気が付くと床下の芋がま(芋の貯蔵庫)に落ち、畳やガラスの破片が覆いかぶさっていた。肩や腹から血が噴き出した。
三菱兵器で被爆した父は一カ月後に死亡。近くの川で泳いでいた四歳違いの弟も三カ月後に白血病で亡くなった。「あの日の地獄は体験した人でしか分からない」
あれから五十五年。井手さんの右腕とわき腹のガラスの破片でできた傷あとは今もうずく。しかし、原爆で傷つきながらも、けなげに咲き続けるツバキは自分と重なり勇気づけられる。戦争や原爆を知らない世代が増えたが、ツバキは貴重な被爆の生き証人。井手さんは大事に手入れをし続けるつもりだ。