赤れんが塀 =長崎市家野町・爆心地から1.4キロ= 原爆に耐え平和見守る
日中は買い物客でにぎわう長崎市の一大ショッピング街の住吉地区。近くに長崎大学のキャンパスがあり、学生の姿が絶えることはない。正門前を走る国道206号は間断なく車が行き交っている。被爆後の焼け野原がうそのように町は姿を変えてきたが、国道に面した赤れんが塀だけは傷跡を残しながらその変遷を静かに見守ってきた。
塀が取り巻いているのは、杉本巌さん(88)方。杉本さんの祖父が戦前、約三百三十平方メートルの敷地にあった木造二階建ての自宅の周りに築いたという。被爆当時、ここには巌さんと妻の八重子さん(78)、生後十カ月の長男、邦夫さん(55)の三人が暮らしていた。
原爆―。自宅には八重子さんと邦夫さんがいた。八重子さんは血だらけになりながら息子を抱きかかえ、燃えている家から命からがら逃げ出した。当時の梅香崎町(現・新地町)にあった長崎郵便局に勤務していた巌さんは数時間歩いて自宅に戻った。家は焼け落ちていた。赤れんが塀だけは爆風と放射線を浴びながらも吹き飛ばずに残っていた。
巌さんは戦後、赤れんが塀の内側に家を建て直した。長い年月の中でれんがにはひびが入り黒ずんだ部分も増えた。同居している長女の清心みゆきさん(52)は「小学生のころ、友達とれんがに乗って遊んだことは覚えている」が、原爆に耐えたことは最近知った。みゆきさんは「半世紀以上も残るなんて大変なことですね。れんがを見ると平和の重さを感じます」と話した。