石崎タミ子さん(86)=長崎市三ツ山町=原爆劇を子供たちに
背後の幕に、劫火(ごうか)と黒煙が渦巻く。「おおぉ」と言葉にならない声を発しながら、水を求めさまよう負傷者たち。すすけた顔は、炎に照らされて赤い。時はあの日のまま、止まっている。
■止まった時間
恵の丘長崎原爆ホーム別館(長崎市三ツ山町)で、入所者による原爆劇が始まって五年。身もだえて死んでいく被爆者を、生き残った被爆者が再現する。毎年、春を迎えるころ、施設で上演。石崎さんは緑内障で視力はゼロに近いが、主役級だ。
今年三月の発表会で演じたのは、施設創設者の故江角ヤスさんだった。江角さんは、原爆で純心高等女学校の生徒二百十三人を失った、当時の校長―。
子供たちは聖歌を心の糧にして天に召された。「歌いながら祈りながら亡くなっていきました…」。悲嘆に暮れる校長になり代わり、石崎さんは舞台にひざまずいて泣いた。
被爆者が水を求めさまようシーンは、心の傷をえぐる。「あんな惨めでひどいさま、本当は見たくもない。二度と嫌ですよ」。今もおののき、恐怖する記憶。それは日常生活でも、ふと呼び覚まされる。のどが乾くと「水がほしい」という人々の声が、耳の奥で鳴る。
石崎さんはあの日、稲佐橋近くで被爆した。気絶して、原爆落下の瞬間の記憶はない。意識を取り戻し、木材の陰からよろよろと身を起こすと、地獄にいた。顔は焼けただれ、ひたすら水を求める人々の群れ。「水筒の水を少しずつ分けるのが、精いっぱいだった。水をあげた人はみんな、その日のうちに死んだと後で聞いて…」
死屍(し)累々の焦土から始まった長崎の戦後。五十五年の歳月をもってしても、原風景はよみがえり続ける。原爆劇の舞台で繰り広げられるのは、振り払いたい記憶にほかならない。
■もう忘れまい
しかし、そうすることは、やめた。「今はね、もう、死ぬまで忘れまいと決めてるんです」。石崎さんは二年半前、今の施設に来て、夕刻の祈りを始めた。戦争のない世界を思い、手を合わせる。そのとき「眼球は飛び出し、耳は垂れ下がったあの人々の姿を、自然と思い浮かべるようになった」。残された者だけが脳裏に刻む真実だ。
原爆劇を始めたころの出演者の何人かは、既に亡くなっている。石崎さんはたまに「あと少し続けさせてください」と祈る。「できなくなる前に、学校で上演してみたい。私たちが見たまんまを、子供たちに見てほしい」。そう願って―。