降旗さんの歌集「鎮魂」と、手記「長崎原爆治療の想出」

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戦後73年・被爆73年 表現者たち 鎮魂のうた 降旗良知医師の記憶〈7〉完 人類の果て 壮絶な体験 心にしまう

2018/08/08 掲載

降旗さんの歌集「鎮魂」と、手記「長崎原爆治療の想出」

人類の果て 壮絶な体験 心にしまう

 
 針尾海兵団医務科救護隊の降旗良知(ふりはたりょうち)らは、1945年8月17日から10日間、長崎市内で被爆者らの治療に当たり、壮絶な生死と向き合った。10日後、命令を受け、新興善国民学校の救護所を後にした。
 帰隊後、救護隊員の多くが、2次被爆による放射線障害のため、高熱、血痰(けったん)、喀血(かっけつ)などで苦しんだという。同年9月に、長野県松本市に帰郷した降旗も、これらの疾患に苦しめられ、2年ほど入退院を繰り返した。その後、信州大医学部に入局。51年に地元で医院を開業し、99年に引退するまで院長として診療を続け、引退後も地域医療に貢献した。
 降旗は、いつの頃からか毎年8月9日に、救護所だった旧新興善小学校(97年に閉校)に、原爆犠牲者に供える花を送るようになった。そのたびに同校の児童らからお礼の手紙などが送られて来るようになり、交流が始まった。
 降旗の長男で医師の、康敬(やすたか)(63)=松本市=は、「父にとり、長崎の被爆体験は言葉では表現できないような、忘れようにも忘れられないつらく悲しい体験であり、自分の心の奥にしまっていたと思う。詳しく話したのは、91年に短歌をまとめてから」と振り返る。常々「再び長崎原爆と同じことが起こるようなら、それは人類の滅亡を意味する」と話していたという。
 短歌を詠んだのは、湾岸戦争のテレビ映像を見て、原爆治療の光景がよみがえったことがきっかけだった。50代のときに書いた手記「長崎原爆治療の想出」と、70歳を目前に編んだ歌集「鎮魂」を残し、降旗は2007年に85歳で生涯を閉じた。=文中敬称略=

  あはれあはれ 次々と弊死(へいし)する負傷者の 死に 麻痺(まひ)したる心なりしか
  死や死や これだけの数多き死となりぬれば 人類の果てみゆるがごとし
  わが心深き山の古き沼のごとくありたるか原爆の日を 想出(おもいいで)て止まず
   (歌集「鎮魂」より)