狐火 死者焼く 寂しい炎の色
次から次に運び込まれる負傷者の数があまりにも多く、海兵団が用意した点滴輸液(リンゲル液)は、すぐに底をついてしまった。そのため、船にドラム缶を積んで行き、玄界灘の海水をくんで代用したという。歌集の末尾に付された解説には、「二~三倍に稀釈し煮沸滅菌して使用した」とある。
包帯交換は蛆(うじ)との戦いだった。包帯をほどくと、小さなバケツに半分ほどの蛆が落ちることもあった。すさまじい爆風で飛び散った鋭利なガラス片を、体中に浴びた人も大勢いた。傷はふさがっていても、皮膚の下に無数のガラス片が埋まっていたり、頭骨に深く突き刺さっていたりした。背中を触っていて硬いと感じたところには、ガラスが埋まっていて、メスで切り開いて取り出した。
治療が終わると、亡くなった人を火葬した。新興善国民学校では、毎日、17人くらいの人が亡くなった。倒壊した家屋の柱でやぐらを組み、死者を並べて、高く積み上げ、重油をかけて焼いた。夕刻になると、市内の山手全体に死者を焼く赤い火が点々と見えた。降旗は、その寂しい炎の色と人体の焦げるにおいを、記憶から消し去ることはできなかった。
10日間の壮絶な救護の日々だったが、患者の郷里の話を聞きながら交流するなど、心が安らぐひとときもあった。国民学校の手洗い場にドラム缶で沸かしたお湯を注ぎ、にわか作りの「露天風呂」に入ったことも。湯船から見上げた満月につかの間、疲れを忘れた。
=敬称略=
リンゲル液 遂に間に合はず 玄海(げんかい)の浄き海水をそのまゝ使ふ
頭髪の 中なるガラス 頭骨(とうこつ)に 深くも刺さる打ち込めるごとし
長崎の夜は狐火の 点々と 狐火にあらず 人を焼く煙
(歌集「鎮魂」より)