新興善国民学校救護所(枡屋富一撮影、長崎原爆資料館所蔵)

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戦後73年・被爆73年 表現者たち 鎮魂のうた 降旗良知医師の記憶〈5〉 少年・少女の死 悲痛な記憶 胸に刻む

2018/08/08 掲載

新興善国民学校救護所(枡屋富一撮影、長崎原爆資料館所蔵)

少年・少女の死 悲痛な記憶 胸に刻む

 針尾海兵団救護隊の降旗良知(ふりはたりょうち)の手記には、救護所に運び込まれた負傷者の治療に当たった日々の記憶がつづられている。

 被爆直後から負傷者の救護所となった新興善国民学校の病室(教室)に、顔に傷を負った4歳ぐらいの女の子が、やはり負傷した母親と一緒に収容されていた。女の子は、左側の頬に半円状の裂傷があった。縫合はうまくいき、元気な様子だった。
 救護所には、毎日、むごい傷を負った人々が次々と運び込まれる。無邪気で愛らしい女の子は、傷ついた負傷者らにとっても、息つく暇もなく治療に当たる降旗らにとっても、心和む存在であった。
 女の子は順の他には目立った外傷もなかったが、ある朝、突然亡くなった。その安らかな死に顔が、周囲の大人たちの涙を誘った。
 市内に点在する他の学校や公民館なども、新興善国民学校と同様に負傷者の収容所となっていた。降旗らはそうした所へも治療に通った。その一つに、7歳ぐらいの男の子が収容されていた。片方の太ももに、インク瓶ほどの塊の第三度火傷(炭化)があった。なぜ一部分だけにこんなひどい火傷を負ったのかは、分からなかったが、毎日通って診ていた。元気そうに見えたその少年は、ある日突然、炭化した部分がすっぽり抜けると同時に、息を引き取った。素直でハキハキした男の子だった。少年の死もまた、悲痛な記憶として降旗の胸に刻まれた。
 8月の炎天下、市内各所の防空壕(ごう)にも通った。長崎の町を歩いていると、練炭の灰のような形をした灰白色のものがあった。人間の頭蓋骨が高熱で焼けたものだった。つまずいて、ちょっと触れると、ほこりのように、散ってしまう。何度となく経験した。

  ある朝その子 ふっと死にけり あどけなき 優しき笑みを頬に残して
  如何なる熱傷にや 超高熱の 原子線 せばめられてぞ放射されしか
  悲し悲し 破(や)れしまゝなる 高窓ゆ 秋空仰ぎ涙流しき
    (歌集「鎮魂」より)