県職組で書記長を務めていた当時の川野さん(中央部のマイクを手にした男性)=1985年ごろ、旧県庁内(県職連合提供)

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非核の願い 国境を超え 被爆者・川野浩一の軌跡【3】 組合活動 被爆者、弱者に寄り添い

2018/07/31 掲載

県職組で書記長を務めていた当時の川野さん(中央部のマイクを手にした男性)=1985年ごろ、旧県庁内(県職連合提供)

組合活動 被爆者、弱者に寄り添い

 川野浩一は子どものころからやせて体が弱かった。30歳近くまでなぜかよく鼻血が出ていた。3年前には食道がんと宣告され、原爆症に認定された。
 「昔から何か人と違うと思っていた。原爆に原因があるのではないか」
 被爆者運動や組合活動のリーダーとして対外的に強気の姿勢を崩さない川野だが、内面では常に健康不安を抱えてきた。
 1960年夏、当時20歳の川野は長崎市内の病院のベッドに横たわっていた。就職を控えた時期に結核を患ったのだ。挫折を味わった。そんな折、ベッドの上から、安保闘争のデモで若者が体を張っている様子をテレビで見た。「俺はこんなところで寝ていていいのか」。歯がゆかった。
 約1年半の療養生活を終え、市内で安保闘争のデモ行進を目にした。そこで、泣き虫だった高校の同級生がスローガン旗を持っているのを見て、刺激を受けた。川野は21歳で県に入庁後、県職組(現県職連合)で組合活動に力を入れ、青年部長や書記長、委員長を歴任、頭角を現した。
 54年の米国によるビキニ環礁での水爆実験に伴う「第五福竜丸事件」を機に国内で反核運動が拡大すると、川野も自分が被爆者であることを強く意識するようになった。
 56年には日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が発足。57年に原爆医療法、68年に原爆特別措置法が施行された(現在は被爆者援護法に一本化)。
 被爆者運動が高まる中、当時、県職組の青年部長だった川野は、ある男性組合員の死に直面した。男性は、被爆2世で死因は白血病。川野は「原爆が原因では」と考え、組合の情報誌に投稿して、問題提起しようとした。
 ところが、男性の母親から「公にしないでください」と懇願された。事情を聴くと、男性の妹がもうすぐ結婚するため、兄の白血病が被爆に起因すると思われたくないと言うのだ。実は、川野の親族にも同様に差別を恐れて被爆の事実を長年明かしていない人がいた。母親の悲痛な気持ちが胸に響いた。
 被爆者に対する「差別」の問題に向き合うことで、川野の被爆者・平和運動への取り組みは深化した。
 県内では75年に県労評単産被爆者協議会(現県平和運動センター被爆連)が設立され、川野はメンバーとして被爆者の病気休職を巡る労働条件の改善などに取り組んだ。連合長崎の会長を経て2003年には被爆連の議長に推され、活動をけん引し現在に至る。
 川野は「被爆体験者」を含め被爆者に対する国の援護施策に今も納得していない。一人一人の力は弱い。援護拡大には団体による行政側との交渉が不可欠だ。
 「被爆者というだけで生きづらさを感じている人がたくさんいる。そんな思いを後世に絶対経験させたくない」。その言葉には、弱者への共感がにじむ。