被爆体験 心と体に突き刺さる棘
原爆投下から間もなく、川野浩一は気味の悪い一夜を過ごした記憶がある。
夜、床の間で横になると、枕元に小さなバケツがあった。炭のようなものがバケツの半分まで入っている。祖母は「浦上にいた親戚の骨だ」と言う。祖父が爆心地に近い浦上方面までその親戚を捜しに行き、遺骨を集めて持ち帰ったのだ。
幼かった川野はその夜、バケツの骨が怖くて寝付けなかった。
後に知ったが、亡くなった親戚は、原爆投下前に「街中は危ないから浦上に来い」と川野の一家をしきりに誘っていた。「言う通りにしていたら自分もあの骨のようになっていた」
◇
あの日、川野自身は長崎市本紙屋町(現麹屋町)の自宅前の路上(爆心地から3・1キロ)で被爆した。
当時5歳。近所の友達と遊んでいた。そのとき上空で「ブーン」とプロペラ音が聞こえ、川野は「友軍機ばい」と言って空を見上げた。すると突然、友達が自分の家に向かって走りだした。原爆が投下され、川野の意識は途切れた。
気が付くと吹き飛ばされていた。15メートルほど体が飛んだだろうか。そばで近所の中学生が額にガラスが刺さり血が流れているのが目に入った。その中学生と共に、ぼうぜんとして立ち上がった。幸いにも無傷だった。何が起きたのか分からなかった。辺りは昼間なのに薄暗かった。
上空で再び飛行機の音がしたため怖くなり、近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。壕内では大人たちが「爆弾はどこに落ちたのか」と騒然としていた。誰かが「広島に落とされた新型爆弾ばい」と言うと、静まり返った。
間もなく母親が迎えに来て、自宅前の防空壕に移動した。壕は真っ暗で、姉や妹らと共に恐怖で震えていた。太ももをけがした男性が入ってきて、母と叔母が手当てしていた。
8月15日、日本が敗戦したと知ると、川野の一家は自宅に戻った。枕元でバケツの骨を見たのはそのころだ。
一発の原爆で分かれた生と死。川野は「助かって良かったとは思っていない」と淡々と振り返る。原爆の悲惨な体験と放射線は、棘(とげ)のように心と体に突き刺さったままだ。
◇
被爆70年の2015年4月。川野は県被爆二世の会の招きを受け、自らが被爆した麹屋町付近で体験を証言した。被爆2世やその子どもたち15人ほどが川野の話に聞き入った。
最後に被爆者の高齢化に触れ「いっそう被爆者の声に耳を傾け、自分たちの歩む道を考えてほしい」と訴えた。死者の無念と生き残った者の苦しみは、今も川野を突き動かす。
「今の若い人は平和であることが当たり前と思っているが、そうではない。被爆体験を伝え、どう戦争を回避するか考える機会をつくるのも私たちの役割だ」
夜、床の間で横になると、枕元に小さなバケツがあった。炭のようなものがバケツの半分まで入っている。祖母は「浦上にいた親戚の骨だ」と言う。祖父が爆心地に近い浦上方面までその親戚を捜しに行き、遺骨を集めて持ち帰ったのだ。
幼かった川野はその夜、バケツの骨が怖くて寝付けなかった。
後に知ったが、亡くなった親戚は、原爆投下前に「街中は危ないから浦上に来い」と川野の一家をしきりに誘っていた。「言う通りにしていたら自分もあの骨のようになっていた」
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あの日、川野自身は長崎市本紙屋町(現麹屋町)の自宅前の路上(爆心地から3・1キロ)で被爆した。
当時5歳。近所の友達と遊んでいた。そのとき上空で「ブーン」とプロペラ音が聞こえ、川野は「友軍機ばい」と言って空を見上げた。すると突然、友達が自分の家に向かって走りだした。原爆が投下され、川野の意識は途切れた。
気が付くと吹き飛ばされていた。15メートルほど体が飛んだだろうか。そばで近所の中学生が額にガラスが刺さり血が流れているのが目に入った。その中学生と共に、ぼうぜんとして立ち上がった。幸いにも無傷だった。何が起きたのか分からなかった。辺りは昼間なのに薄暗かった。
上空で再び飛行機の音がしたため怖くなり、近くの防空壕(ごう)に駆け込んだ。壕内では大人たちが「爆弾はどこに落ちたのか」と騒然としていた。誰かが「広島に落とされた新型爆弾ばい」と言うと、静まり返った。
間もなく母親が迎えに来て、自宅前の防空壕に移動した。壕は真っ暗で、姉や妹らと共に恐怖で震えていた。太ももをけがした男性が入ってきて、母と叔母が手当てしていた。
8月15日、日本が敗戦したと知ると、川野の一家は自宅に戻った。枕元でバケツの骨を見たのはそのころだ。
一発の原爆で分かれた生と死。川野は「助かって良かったとは思っていない」と淡々と振り返る。原爆の悲惨な体験と放射線は、棘(とげ)のように心と体に突き刺さったままだ。
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被爆70年の2015年4月。川野は県被爆二世の会の招きを受け、自らが被爆した麹屋町付近で体験を証言した。被爆2世やその子どもたち15人ほどが川野の話に聞き入った。
最後に被爆者の高齢化に触れ「いっそう被爆者の声に耳を傾け、自分たちの歩む道を考えてほしい」と訴えた。死者の無念と生き残った者の苦しみは、今も川野を突き動かす。
「今の若い人は平和であることが当たり前と思っているが、そうではない。被爆体験を伝え、どう戦争を回避するか考える機会をつくるのも私たちの役割だ」