救えなかった命 見守るしかない無念さ
戦時下、長崎市では空襲時に備えて救護体制が敷かれていた。しかし、原爆投下によって、当時、国内でも最高レベルと言われていた長崎医科大(現長崎大医学部)をはじめ爆心地近くの医療施設や、医療従事者らが壊滅的な被害を受け、救護体制は大きく揺らいだ。
爆心地から3キロの場所にあった新興善国民学校は、被爆したものの、鉄筋コンクリート造りだったため校舎は残った。被爆直後から負傷者の救護所となり、海軍の救護隊本部となった。針尾海兵団の救護隊として派遣された降旗良知(ふりはたりょうち)らは、同救護所に寝泊まりし、同僚医師や衛生兵らと共に、負傷者の収容や治療に当たった。そこで数多くの生死と向き合った。中でも忘れがたい死者の記憶を手記につづっている。
三菱造船所に勤めていた20歳前後の女性は、ドカンという音と共に崩れ落ちた建物の下敷きになり、気が付いたときには、自分が腰掛けていた椅子の脚が大腿(だいたい)部を貫通していたという。その傷口からガス壊疽(えそ)菌に感染し、大きく腫れ上がって、高熱を発していた。両親が付き添っていたが、ひどい苦しみようだった。深夜2時ごろ、上級医の許しを得て、傷を切開した。夜明け頃、女性は楽になったと言いながら亡くなった。
破傷風の患者も多かったが、血清がないため、死を見守るしかなかった。それは、降旗ら医師にとり、無念極まることであった。乳飲み子を抱いた30歳前後の女性がいた。奈良県の出身で身よりはないと話していた。病勢が進むに連れ間隔が短くなる発作に見舞われながら、気丈に子どもに乳を飲ませていた。深夜1時ごろ診て、翌朝5時ごろに再び行くとすでに亡くなっていた。元気でふくよかな赤ん坊が、かわいい手で無心に母親の体を触っていた。
止むを得ず 大き切開を加へたるに 楽になりましたと言いて死にけり
助けんに 萬にひとつののぞみなし 原爆の人の破傷風なりき
既に死せる 母の乳房を 吸いいたる 嬰児(みどりご)のことをわれ忘れめや
(歌集「鎮魂」より)