長崎大核兵器廃絶研究センター客員研究員 桐谷多恵子さん(37) 被爆 人々はどう生きた 3世として戦後史研究を
被爆地の戦後史、特に復興が研究テーマ。横浜市に在住。「被爆から人々はどう生きたのか」。その答えを追い求め、広島と比べて被爆後の資料が少ない長崎で、調査研究を進める。
横浜で生まれ育った。10歳のとき、長崎出身の母について、父から「被爆2世」と聞かされた。母方の祖母、伯母が被爆し、その後、がんで亡くなったことも。横浜で原爆に関する教育はない。被爆者と接したこともない。だから母が2世、自分は3世と認識した途端、不安に襲われた。
分からないことの“穴”を埋めるように漫画「はだしのゲン」を読み、図書館でそっと被爆者の写真集をめくった。知りたいのに母の口は重い。14歳のとき、母を責めたこともあった。
17歳のころ、父の発案で初めて広島、長崎に家族旅行した。広島では、被爆者が死没者と次世代のために体験を語っていること自体に衝撃を受けた。長崎では原爆資料館を訪れた際、被爆からの経過年数とがん発症率の関係を示したパネルの前で母が泣きだした。祖母(被爆当時23歳、52歳で死去)、伯母(同2歳、36歳で死去)が亡くなった年齢が、ほぼ統計通りだったからだ。
横浜に戻り、祖母の日記を初めて読んだ。立山で被爆後、浦上まで行った曽祖母(被爆当時60歳)は、帰宅した日から様子がおかしくなり1年後、肝硬変で亡くなっていた。家族の物語が、原爆投下という巨大な出来事の下でつながっていく。母が2世を理由に結婚を当時反対されたことも父から聞いた。被爆者、そして2世、3世にも本質的には深い葛藤がある。そこに向き合おうと思った。
被爆当時の首長ら肩書のある人々の行動は、記録されている。一方、祖母ら庶民の歴史は残されない。どう人生を歩んだのか。「被爆者の、人間の復興を描きたい」との思いが膨らんだ。
「研究者になりたかったわけではないが、ある意味で祖母らの“あだ討ち”がしたいというか。それができるのが公平な学問の場」
法政大に進み、同大学院国際文化研究科博士後期課程修了。同院非常勤講師を経て2010年から6年間、広島市立大広島平和研究所に講師として勤めた。同研究所の発行物に載った論文では、1945年後半から50年を研究対象に設定。永井隆批判などもひもときながら長崎の戦後史を検証した。
「先人の研究を、私たち世代が評価し、受け継ぎ、発展させていく時期だと思う。ただし『成果は、原爆被害者の痛みを和らげるものとしてその人たちに返す』という視点を忘れてはならない」
被爆地の戦後史研究を、いつか原発事故で苦悩する福島にも役立つものにしたいと願う。
◎著作紹介
論文「長崎の原爆被爆に関する研究史を巡る一考察-占領下の『復興』の問題に寄せて」(広島平和研究2013年11月創刊号に収録)で、桐谷さんは被爆地長崎の占領期の復興について、行政側ではなく住民側の視点から検討した。特に浦上以外のエリア、主に旧市街地のあり方、そして両地域に住む人々の複雑な内面に着目。「長崎の二重構造」をキーワードに、総合的「被爆地論」にアプローチしている。
都市の復興は、爆心地を含む浦上ではなく旧市街地が先行し、浦上の被爆者らの生活再建に向けた支援はなかなか行われなかった。
その背景を「南蛮文化」や「異国情緒」で栄えてきた旧市街地と、異教として歴史的に差別されてきた浦上の関係性から考察。資料調査、被爆者への聞き取りを通じて、両地域間にあった意識の差が、その後の被爆地の分断を生じさせた一因と分析する。占領軍と結び付きながら復興政策に関わった長崎の青年運動が、被爆者支援というよりも、旧市街地の「復興」活動を軸に進められた経過も掘り起こした。
幕末以来、日本の進路に大きな影響を与えた米英に対し、原爆投下後も長崎は親善を培う責務を果たさなければならなかった。その特異な地域性にも注目。長崎における支配構造の詳細な解明を、今後の研究課題としている。