地獄絵 「これは人類は滅びるな」
降旗良知(ふりはたりょうち)(1921~2007年)が56歳のときに書いた手記「長崎原爆治療の想い出」によると、45年8月9日、長崎に原爆が投下された際、降旗は軍医科見習尉(い)官として勤務する長崎県針尾海兵団医務科の診療棟にいた。
天気のいい夏の朝だった。突然、閃光(せんこう)がひらめき、室内全体が明るく照らされた。しばらくしてものすごい地鳴り、そして、雷鳴のような轟(ごう)音と続いた。至近弾?! 爆撃?! そう直感し、次は?! と身構えたが、一向に次は来ない。外に出てみても、特に変わりはないようだった。
大村湾を一望できる針尾島の高台まで行ってみると、長崎市の方向に巨大な爆煙が盛り上がりつつあった。黒々とした基底部には、ちろちろと火炎が見える。初めて目にする光景に身がすくんだ。想像を絶する事態が起こったことは明らかだった。
ああ、あの下には人は到底生きてはいられない。一刻も早く救護しなければ-。恐怖感はなかった。「私の一生を通じてあの時程燃えたぎったことはありません」と記している。
同海兵団医務科は、9日夕刻には第1次救護隊を組織して派遣。その後、交代に第2次救護隊を派遣した。降旗はこの第2次救護隊の一員として、17日から10日間派遣された。
列車が長崎に着くと、一行は救護隊本部がある丘の上の新興善国民学校に向かった。一面瓦礫(がれき)の焼け野原となった長崎の街を、おのおの声もなく歩いた。先に派遣されて戻った人は、「地獄だ!あれは地獄だ!」と話していた。被爆から1週間を経ても、その惨状は地獄絵のままだった。このとき降旗の心に浮かんだのは「これは人類は滅びるな」という思いだった。
街中(なか)に牛の屍の 腐りおり 市内電車の腹みせており
その時点の凄惨を極めし状況を十日の後にして 唯(ただ) 推し量(はか)る
超高熱の 原子射 爆風 焦熱は 人類再び浴びるべきにあらず