生活翻弄も 危機感薄く 島民の思い
対馬市北端の沖にある海栗(うに)島。朝鮮戦争が勃発した1950年、米軍はこの地にレーダー監視所を置いた。それからここは半島に向けた日本側の“第一線”となった。
上対馬町の早田吉夫さん(87)は当時、夏に2カ月ほど海栗島で米軍の施設建設工事を手伝った。島内からは約100人が“出稼ぎ”に行っていた。建物はほとんどなく、取り急ぎ必要な施設を整えた。
戦況は緊迫していた。「釜山陥落は時間の問題」といった情報もあった。海栗島からの米軍の威嚇射撃を何度も目撃。朝鮮半島で爆撃があれば、揺れを感じた。「米軍は海栗島を北東アジアの重要拠点としていたようだった」。早田さんは振り返る。
その後、59年11月に米軍から航空自衛隊に移管された。空自海栗島分屯基地は24時間365日にわたり、レーダーサイトで領空や周辺空域を警戒監視している。
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朝鮮戦争からもうすぐ70年-。半島情勢の緊迫化は、島民の身近な暮らしにも影響をもたらした。昨年7月、北朝鮮の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射を受け、県立上対馬高校は1月に予定していた韓国への修学旅行を「不安要素が大きい」として、国内に変更した。
現地の学校と交流し、文化の違いや対馬とのつながりの歴史を学ぶ予定だった。しかし保護者の一部から「もしものことがあれば怖い」といった声も寄せられた。中上徹校長は「教育活動が社会情勢に左右されるのはいいことではない」と打ち明ける。
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空自海栗島分屯基地では現在、弾道ミサイル対処機能を加える工事が続く。空自によると、航空機などの探知追尾能力も向上するという。
半島情勢に翻弄(ほんろう)されながらも、危機感を抱いている島民はさほど多くない。「距離的には近いが、意識はしない」「対馬から見ても北朝鮮は遠い国」。国境の島で暮らす人たちでさえ、そう言ってはばからない。「そんなことばかり、いちいち考えていては対馬で暮らしていけない」。朝鮮戦争当時を知る早田さんは、島内の雰囲気をこう解説した。
上対馬では夕暮れ時、釜山の街の明かりが見え、あらためてその近さを実感できる。島民の平穏な日常を保つためにも、半島有事への備えが問われている。