パリ五輪の余韻が残る中、28日にパリ・パラリンピックが開幕する。長崎市出身の宮嶋志帆(32)=コーエーテクモクオリティアシュアランス=は、生まれつき左脚の長さが右脚の半分以下しかないカヌー女子の選手。小学生のころにパラに憧れ、卒業文集に「パラに出たい」と書いた少女が20年後に夢をつかんだ。
■1歳で義足
先天的に左脚の大腿(だいたい)骨が短く、脛骨(けいこつ)が欠損している。1歳で義足を装着し、3歳で水泳を始めるころには、すでに自身の障害を受け入れていた。
パラリンピックの存在を知ったのは長崎市立西北小3年の10月だった。2000年シドニー大会の開会式か、閉会式だったと記憶している。
歩いて行進する人もいれば、車いすの人もいる。手を振る人、そして足を振る人…。多様な障害のある人たちがテレビの中でキラキラ輝く姿に魅了された。
「これは何なの?」
思わず母親に聞いた。「障害があってもこんな大きなスポーツの大会に出られるんだ」と衝撃を受けた。そして憧れた。
決して運動神経が良かったわけではない。幼少期からスイミングスクールに通ったが、右脚だけではうまく泳げず、その場をくるくる回ってしまう。上達が遅く、水泳は嫌いだった。それでも、パラに出たいと気持ちを切り替えて練習。小学5年時に4泳法全てを習得した。純心中時代は頻繁に九州大会に出場。地元テレビ局の社員だった父親の東京転勤に伴い入学した東京純心女高では、3年時に国際大会への出場を果たした。
■諦めないで
昭和女大に進んだころから、水泳のタイムが縮まらなくなり「パラに出場するのは厳しい」と徐々に感じるようになった。でも、ここで諦めなかったのが、夢をつかんだ最大の転機だ。パラリンピックの採用競技を全てチェック。少しでも自分に向いてそうな競技を探した。そして卒業後の15年、ローイングに転向。3年ほど練習したものの、脚を痛めてしまったため、18年に同じ水上競技のカヌーに再転向すると、これがハマった。
カヌーは艇の上でバランスを取るのが難しいが、ローイングや水泳でバランス感覚を養ってきたこともあり、すんなりと適応。可能性を感じた。19年3月にデビューし、21年から4年連続で世界選手権に出場するまでに飛躍。今年に入って3月、5月と200メートルの自己ベストを約1秒ずつ更新して日本代表に滑り込んだ。
朗報が届いた瞬間は「やっと行けるんだ」と安堵(あんど)の気持ちが大きかった。真っ先に家族に伝えると「本当にかなって良かったね」と心からの言葉をもらい、喜びが込み上げてきた。
■思い込めて
カヌーは9月6~8日に競技が行われ、宮嶋はカヤックシングル200メートル(運動機能障害KL2)と、バーシングル200メートル(同VL3)の2種目に出場する。体格の大きな選手が集う中、身長148センチはかなり小柄な方だ。「厳しい戦いになると思うが、スタミナがあるので後半に落ちないのが持ち味。世界の強豪とどれだけ渡り合えるかに注目してほしい」とイメージを膨らませている。
パリにも漠然とした憧れがあり、大学時代の第二外国語はフランス語を選択していた。「だからパリでパラがあると決まった時から、ここに出たいという思いは強かった」。街並み、クロワッサン、選手村での生活…。楽しみは多い。
伝えたい思いがある。「夢がかなう保証はどこにもない。だけど夢は見ないとかなわない。やりたいことがあるなら絶対にトライした方がいい」。順風満帆にいかなくても、願い続けて、時には考え方を変えるなど工夫すれば、思わぬ形で夢はかなうかもしれない。自らがそうだったように。多くの人にメッセージが届くよう、パドルに思いを込める。
■1歳で義足
先天的に左脚の大腿(だいたい)骨が短く、脛骨(けいこつ)が欠損している。1歳で義足を装着し、3歳で水泳を始めるころには、すでに自身の障害を受け入れていた。
パラリンピックの存在を知ったのは長崎市立西北小3年の10月だった。2000年シドニー大会の開会式か、閉会式だったと記憶している。
歩いて行進する人もいれば、車いすの人もいる。手を振る人、そして足を振る人…。多様な障害のある人たちがテレビの中でキラキラ輝く姿に魅了された。
「これは何なの?」
思わず母親に聞いた。「障害があってもこんな大きなスポーツの大会に出られるんだ」と衝撃を受けた。そして憧れた。
決して運動神経が良かったわけではない。幼少期からスイミングスクールに通ったが、右脚だけではうまく泳げず、その場をくるくる回ってしまう。上達が遅く、水泳は嫌いだった。それでも、パラに出たいと気持ちを切り替えて練習。小学5年時に4泳法全てを習得した。純心中時代は頻繁に九州大会に出場。地元テレビ局の社員だった父親の東京転勤に伴い入学した東京純心女高では、3年時に国際大会への出場を果たした。
■諦めないで
昭和女大に進んだころから、水泳のタイムが縮まらなくなり「パラに出場するのは厳しい」と徐々に感じるようになった。でも、ここで諦めなかったのが、夢をつかんだ最大の転機だ。パラリンピックの採用競技を全てチェック。少しでも自分に向いてそうな競技を探した。そして卒業後の15年、ローイングに転向。3年ほど練習したものの、脚を痛めてしまったため、18年に同じ水上競技のカヌーに再転向すると、これがハマった。
カヌーは艇の上でバランスを取るのが難しいが、ローイングや水泳でバランス感覚を養ってきたこともあり、すんなりと適応。可能性を感じた。19年3月にデビューし、21年から4年連続で世界選手権に出場するまでに飛躍。今年に入って3月、5月と200メートルの自己ベストを約1秒ずつ更新して日本代表に滑り込んだ。
朗報が届いた瞬間は「やっと行けるんだ」と安堵(あんど)の気持ちが大きかった。真っ先に家族に伝えると「本当にかなって良かったね」と心からの言葉をもらい、喜びが込み上げてきた。
■思い込めて
カヌーは9月6~8日に競技が行われ、宮嶋はカヤックシングル200メートル(運動機能障害KL2)と、バーシングル200メートル(同VL3)の2種目に出場する。体格の大きな選手が集う中、身長148センチはかなり小柄な方だ。「厳しい戦いになると思うが、スタミナがあるので後半に落ちないのが持ち味。世界の強豪とどれだけ渡り合えるかに注目してほしい」とイメージを膨らませている。
パリにも漠然とした憧れがあり、大学時代の第二外国語はフランス語を選択していた。「だからパリでパラがあると決まった時から、ここに出たいという思いは強かった」。街並み、クロワッサン、選手村での生活…。楽しみは多い。
伝えたい思いがある。「夢がかなう保証はどこにもない。だけど夢は見ないとかなわない。やりたいことがあるなら絶対にトライした方がいい」。順風満帆にいかなくても、願い続けて、時には考え方を変えるなど工夫すれば、思わぬ形で夢はかなうかもしれない。自らがそうだったように。多くの人にメッセージが届くよう、パドルに思いを込める。