痛烈な風刺の「オッペケペ節」で知られ、明治時代に演劇人として活躍した川上音二郎(1864~1911年)の写真や手紙が、長崎市でべっ甲店を営んでいた二枝家に残されていることが、姫野順一長崎外国語大特任教授の調査で分かった。音二郎と二枝家は親戚の間柄で、親交があったとみられる。音二郎と長崎の縁を物語る貴重な資料として注目される。
写真や手紙を所蔵しているのは、長崎市戸石町で「二枝美術工芸館」を営む二枝永一郎さん(68)。永一郎さんの祖父新三郎は、兄の貞治郎と共に福岡・博多から長崎に移り1883(明治16)年、長崎市東濱町(現浜町)で「二枝鼈甲(べっこう)美術店」を創業した。
音二郎は博多生まれ。母ヒデは博多の福岡藩御用商人、二枝新平(5代)の長女。ヒデの兄弟新平(6代)の次男が貞治郎、三男が新三郎で、音二郎とはいとこの間柄だった。
永一郎さんが所蔵する写真帳の1冊には84枚が収められており、このうち16枚が音二郎の関連。音二郎の妻で「日本最初の女優」とされる貞奴(1871~1946年)のほか、母ヒデ、弟磯次郎の写真もある。
このうち貞治郎、新三郎ら二枝家の人々と音二郎夫妻が一緒に写った集合写真は1901(明治34)年3月の撮影。音二郎夫妻が長崎を訪れた際に撮ったとみられる。
音二郎の手紙は貞奴との連名で、1902(明治35)年5月の長崎局の消印がある。同年4月18日、欧州巡業中にイタリア・フィレンツェから貞治郎宛てに送った。川上一座の公演を観覧したロシア皇帝(ニコライ2世)からダイヤモンドをあしらった金時計を賜ったと報告。「生涯の大名誉のみならず、子孫末代にわたる宝であり、親戚の間柄をもってお知らせします」と感激をつづっている。
写真帳と手紙は二枝家の仏壇に保管されていた。古写真を調査していた姫野特任教授が2022年3月に同家を訪れて見いだした。
音二郎は14歳の時に実母ヒデを亡くし、継母と折り合いが悪く実家を飛び出した。姫野特任教授は「音二郎は実家の川上家よりも、実母の家である二枝家に親しみを感じていたのではないか」とみている。
永一郎さんは「二枝家と音二郎が親戚なのは長崎ではほとんど知られていないと思う」と話している。
写真や手紙を所蔵しているのは、長崎市戸石町で「二枝美術工芸館」を営む二枝永一郎さん(68)。永一郎さんの祖父新三郎は、兄の貞治郎と共に福岡・博多から長崎に移り1883(明治16)年、長崎市東濱町(現浜町)で「二枝鼈甲(べっこう)美術店」を創業した。
音二郎は博多生まれ。母ヒデは博多の福岡藩御用商人、二枝新平(5代)の長女。ヒデの兄弟新平(6代)の次男が貞治郎、三男が新三郎で、音二郎とはいとこの間柄だった。
永一郎さんが所蔵する写真帳の1冊には84枚が収められており、このうち16枚が音二郎の関連。音二郎の妻で「日本最初の女優」とされる貞奴(1871~1946年)のほか、母ヒデ、弟磯次郎の写真もある。
このうち貞治郎、新三郎ら二枝家の人々と音二郎夫妻が一緒に写った集合写真は1901(明治34)年3月の撮影。音二郎夫妻が長崎を訪れた際に撮ったとみられる。
音二郎の手紙は貞奴との連名で、1902(明治35)年5月の長崎局の消印がある。同年4月18日、欧州巡業中にイタリア・フィレンツェから貞治郎宛てに送った。川上一座の公演を観覧したロシア皇帝(ニコライ2世)からダイヤモンドをあしらった金時計を賜ったと報告。「生涯の大名誉のみならず、子孫末代にわたる宝であり、親戚の間柄をもってお知らせします」と感激をつづっている。
写真帳と手紙は二枝家の仏壇に保管されていた。古写真を調査していた姫野特任教授が2022年3月に同家を訪れて見いだした。
音二郎は14歳の時に実母ヒデを亡くし、継母と折り合いが悪く実家を飛び出した。姫野特任教授は「音二郎は実家の川上家よりも、実母の家である二枝家に親しみを感じていたのではないか」とみている。
永一郎さんは「二枝家と音二郎が親戚なのは長崎ではほとんど知られていないと思う」と話している。