俳優の杉良太郎さん、長崎の被爆者女性を探す…55年前に出会った「おかみさん」、今も忘れられず

長崎新聞 2025/04/25 [12:31] 公開

大浦天主堂の前で55年前の記憶をたどる杉さん=長崎市南山手町

大浦天主堂の前で55年前の記憶をたどる杉さん=長崎市南山手町

  • 大浦天主堂の前で55年前の記憶をたどる杉さん=長崎市南山手町
  • 記憶を頼りに大浦天主堂周辺を探索する杉さん=長崎市南山手町
  • 1970年5月に杉さんが長崎市内を訪れ、松山町の平和祈念像前で「平和祈願」をしたことを伝える長崎新聞記事
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俳優の杉良太郎さん(80)は、55年前に長崎で出会った被爆者女性のことを今も忘れられない。平和祈願などのため訪れた長崎市内で立ち寄った「小料理屋」の「おかみさん」。杉さんは23日午後、その店があったと記憶する大浦天主堂(同市南山手町)の近くで、痕跡を探し歩いた。

 1970年5月、当時25歳の杉さんは主演映画などの宣伝を兼ねて来崎。爆心地や長崎原爆病院を訪れ、大浦天主堂にも足を延ばした。昼食を取ったのが民家の一部のような、こぢんまりとした店だった。

 着物姿の女性が出迎えてくれた。杉さんがふと「結婚されていますか?」と尋ねると、女性は隣の部屋に杉さんを呼び、着物の裾を少し開いた。脚にケロイドがあった。「これだから結婚できないのよ」。そう明かした女性に、かける言葉が見つからなかった。

 半世紀余り、脳裏に刻まれた女性の姿。この日の探索で確たる情報は見つけられなかった。なぜ、そうまでして捜すのか。杉さんは言う。「見つけることは困難かもしれない。でも55年間ためていた思いがある。会えたら人生の苦労話でもできればと思います」

 俳優や歌手だけでなく、15歳から刑務所や福祉施設の慰問を続けるなど篤志家としても知られる杉さん。広島と長崎で初めて被爆者を慰問した25歳の時には、人気の若手俳優となっていた。

 「杉良太郎 長崎で平和祈願」。当時の長崎新聞が伝えている(1970年5月13日夕刊)。杉さんが特攻隊員を演じた映画「花の特攻隊 あゝ戦友よ」(日活)と、併せて制作したレコード「若き特攻隊員の挽歌(かなしみうた)」(日本コロムビア)の宣伝で長崎市を訪れていた。作品に原爆さく裂の描写が挿入されていたため、杉さんは平和祈念像や原爆病院を巡ったという。

 訪問は5月9日。杉さんは当時の取材に、こう語っている。「子どもの頃、原爆映画を見ました。焼けただれた人たちが水を求めて川へ。しかし川の中で死んでいくシーンは今も強烈な印象として残っています。きょう平和祈願を終えて、肩の荷が下りたような気がします」

 その後、市内のレコード店でサイン会なども開催。記事にはないが、その足で大浦天主堂(南山手町)を訪れ、近くの「小料理屋」で被爆者の「おかみさん」に出会ったという。
      
 杉さんの眼前で、足首から膝上まで続くケロイドをさらして「結婚できない」と語った女性。杉さんは55年前、原爆が刻んだ“傷”に図らずも触れた。これまで公にしなかったが、今年3月、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が発行した機関紙に、彼女の行方を尋ねる投書を寄せた。

 今も有力な情報は寄せられていない。今月23日は、厚生労働省から委嘱されている「特別健康対策監」の活動で本県を訪れ、長崎市内にも自ら足を延ばした。「55年前とは全然景色が違う」と驚きながらも、40分ほどをかけて天主堂周辺を探索。「急な階段を下りた右側にあった」「奥にもう一部屋あった」などと記憶をたどったが、見つからないままだった。

 終戦の前年に生まれた杉さん。25歳の時に特攻隊員を演じ、原爆や沖縄戦などの問題にも関心を深める中で「平和」の尊さを痛感してきた。震災などの被災地支援も長年続ける中、核兵器も戦争もなくならない世界に伝えたいことがある。「自然災害を防ぐことはできない。でも戦争は人間が止められる。世界のリーダーはあまりに利己的だ」

 「おかみさん」も戦争に翻弄(ほんろう)された一人だったのだろう。杉さんは55年前、彼女の“痛み”を受け止めきれなかったが、さまざまな経験を重ねた今、こう考えている。「人の痛みを自分の痛みとして受け取る。それが『人』です」
      
 杉さんは引き続き女性を捜している。情報は所属事務所「杉友」の瀬良さん(sera@r-sugi.jp)へ。