V長崎 創設20周年 初代メンバーでU-18監督の原田武男 仲間の分まで夢追い続け

長崎新聞 2025/03/12 [11:40] 公開

「V・ファーレン長崎」の創設会見に臨んだ原田(後列中央)ら=2005年3月13日、国見総合運動公園遊学の館

「V・ファーレン長崎」の創設会見に臨んだ原田(後列中央)ら=2005年3月13日、国見総合運動公園遊学の館

  • 「V・ファーレン長崎」の創設会見に臨んだ原田(後列中央)ら=2005年3月13日、国見総合運動公園遊学の館
  • V長崎U-18の選手を指導する原田監督(右)=長崎市、県スポ協人工芝グラウンド
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2005年3月13日、南高国見町(現長崎県雲仙市)の国見総合運動公園遊学の館で開かれたV・ファーレン長崎の創設会見。初代メンバー唯一のプロ契約選手として出席した原田武男(当時33歳)の気持ちは、いつになく高ぶっていた。
 「本当にJリーグを目指すのか半信半疑だったけど、本気なんだなと感じた。ここからスタートするんだ」
 簡素な紙に印刷されただけの新チーム名がホワイトボードに貼られた。そろいのウエアはまだなく、着ていたのは前身となった有明SCの水色のジャージーだった。そんな中でも、未来への希望に胸は膨らんだ。

■「まだやれる」

 佐賀県鹿島市出身。高校サッカーの名将、故・小嶺忠敏監督に誘われ、国見高に進んだ。その冬、1年生で全国高校選手権決勝の舞台に立ち、初優勝に貢献。早大時代は日本代表にも選ばれた。全日本大学選手権は5得点でMVPを獲得。引く手あまたの中、誘われたJリーグ9クラブの中から横浜フリューゲルス(横浜F)を選び、1994年に入団した。
 Jリーグは開幕して2年目。華々しい舞台だった。1年目から出場機会を得て順風満帆だったが、98年に経営難に陥った横浜Fが天皇杯優勝を最後に横浜マリノスと合併、消滅してから暗転した。4クラブを渡り歩き、2003年末に福岡から戦力外通告を受けた。
 J通算252試合出場の実績を誇り、当時まだ32歳。それでも所属チームは決まらず、04年は無収入で1人練習に励む日々が続いた。長男も生まれていた。「まだやれる」。そんな自信とは裏腹に、先が見えなかった。
 希望の光を与えてくれたのが、Jリーグ参入へ動き始めていた有明SCだった。国見高の先輩で当時監督を務めていた植木総司の誘いで04年10月から練習に参加。壁ではなく、仲間とボールを蹴り合える喜びは何事にも代え難かった。05年1月の九州各県リーグ決勝大会に助っ人として参加。九州リーグ昇格に導くと、生まれ変わるチームにそのまま加わることを決意した。

■志半ばで引退

 ゼロからのスタート。ほかの選手は仕事をしていたため、当初の練習は夜間が主で会場も転々とした。ほとんどが土のグラウンド。たまにある芝生での試合がうれしかった。営業から練習の準備まで何でもやった。「長崎でJリーグに戻りたい」。その一心だった。
 クラブは「5年でJリーグ」を目標に定めていたが、目的地は思いのほか遠かった。仲間たちが1人、また1人とチームを去っていく。自身も10年シーズンを最後に契約満了。志半ばで引退を余儀なくされた。
 それでも長崎に残った。「まだやれることがある」。営業スタッフや下部組織の指導者として、去って行った仲間の分まで夢を追い続けた。13年3月、悲願がかなって迎えたG大阪とのJ2ホーム開幕戦。運営の仕事に追われながら1万8千人超が詰めかけたスタンドを見渡した時に「やっとここまで来た。長崎にいてよかった」と万感の思いが込み上げた。

■終わらぬ歩み

 この20年で長崎を離れたのは、J3北九州を指揮した17年シーズンの1年間だけ。18年にトップチームのコーチとして復帰し、21年から再びV長崎U-18監督として屋台骨を支えている。
 ここ数年、クラブはものすごいスピードで成長を続けている。サッカー専用のホームスタジアムも完成。「クラブがこんなに大きくなるなんて想像もできなかった」と驚くばかり。ただ間違いなく言えるのは「多くの人に支えられて、今がある」ということだ。
 礎を築いて歴史を刻み、53歳になった。「もっと県民に親しまれるクラブになれるように自分も関わっていきたい」。“ミスターV・ファーレン”とクラブの歩みは終わらない。
=敬称略=