アフガニスタンで医療や水利、農業支援に尽くした医師、中村哲さん(1946~2019年)を、医学生時代に現地を訪ねた長崎大学病院総合診療科准教授の山梨啓友さん(44)は「医師としてのロールモデル(手本)」と慕う。「誰も行かない所でこそ、必要とされる」を信条に、異文化を尊重して現地の暮らしや習慣も視野に入れた医療を実践した中村さん。その姿を間近に見たことが、山梨さんにとって「総合診療」「国際協力」という二つのライフワークの初心になったという。2019年12月、中村さんが凶弾に倒れて4日で5年になる。
5年前、中村さんの訃報を山梨さんはサモアで知った。同国での麻しん流行を受け、日本が派遣した国際緊急援助隊・感染症対策チームの一員として現地入りした直後だった。動揺して涙があふれた。だが、「私は医師。何のためにここにいるのか」。初心に立ち返り、目の前の患者に向き合った。
北海道出身。小学生の時、スタディーツアーでネパールを訪問し、アジアへの関心が芽生えた。高校時代に「人の役に立つ仕事に就きたい」と、医師を志した。その頃に手にした本が、中村さんが自身の活動を記した「ペシャワールにて」だった。
札幌医大在学中の03年、1年間休学して途上国での医療支援の取り組みを訪ねて回った。その一つが中村さんの活動だった。
中村さんは病院と建設中の用水路を忙しく行き来していた。医師でありながら水利や農業に乗り出したのは、アフガニスタンが干ばつに襲われて大地が砂漠化し、清潔な水と食料の不足から病気への抵抗力を失って命を落とす人が相次いだためだ。
山梨さんは、中村さんが山岳地帯に開いた診療所にもスタッフと共に足を運んだ。どの現場でも、病気に苦しむ人たちの生活環境や自立にまで目配りして必要な医療を考えていた。その時々の状況に応じて臨機応変に、土木や農業など医療以外の分野とも連携する姿勢も印象に残った。
現在、山梨さんは離島・へき地医療の研究に取り組む一方、「国境なき医師団」など国際協力活動に参加。現場を重視し、背景となる地域や暮らしも踏まえ健康と医療を包括的にとらえる。「そうした考え方は、中村さんから受けた影響が核になっている」。中村さんのたたずまいと言葉を今も大切に胸に刻んでいる。
5年前、中村さんの訃報を山梨さんはサモアで知った。同国での麻しん流行を受け、日本が派遣した国際緊急援助隊・感染症対策チームの一員として現地入りした直後だった。動揺して涙があふれた。だが、「私は医師。何のためにここにいるのか」。初心に立ち返り、目の前の患者に向き合った。
北海道出身。小学生の時、スタディーツアーでネパールを訪問し、アジアへの関心が芽生えた。高校時代に「人の役に立つ仕事に就きたい」と、医師を志した。その頃に手にした本が、中村さんが自身の活動を記した「ペシャワールにて」だった。
札幌医大在学中の03年、1年間休学して途上国での医療支援の取り組みを訪ねて回った。その一つが中村さんの活動だった。
中村さんは病院と建設中の用水路を忙しく行き来していた。医師でありながら水利や農業に乗り出したのは、アフガニスタンが干ばつに襲われて大地が砂漠化し、清潔な水と食料の不足から病気への抵抗力を失って命を落とす人が相次いだためだ。
山梨さんは、中村さんが山岳地帯に開いた診療所にもスタッフと共に足を運んだ。どの現場でも、病気に苦しむ人たちの生活環境や自立にまで目配りして必要な医療を考えていた。その時々の状況に応じて臨機応変に、土木や農業など医療以外の分野とも連携する姿勢も印象に残った。
現在、山梨さんは離島・へき地医療の研究に取り組む一方、「国境なき医師団」など国際協力活動に参加。現場を重視し、背景となる地域や暮らしも踏まえ健康と医療を包括的にとらえる。「そうした考え方は、中村さんから受けた影響が核になっている」。中村さんのたたずまいと言葉を今も大切に胸に刻んでいる。