金曜の夜だった。
教員だった松尾康徳さん=当時(48)=は長崎市東町の自宅で家族とくつろいでいた。午後8時25分ごろ、折からの雨が急に激しさを増し、5分もせず家に泥水が入り込んできた。「ここにはいられない」。松尾さんは焦った。
悪夢のような夜の始まりだった。
自宅には両親と妻、3人の子どもがいた。寝たきりの父を背負い2階へ避難。やがて地鳴りのような音がして家が揺れた。家族は悲鳴を上げた。
土石流だった。幸い、大木が柱に引っかかって家は倒壊せずに済んだ。家族は全員無事。ただ車は1キロ先に流され、近所でも1階がつぶれたり、土石流に命をのみ込まれた人もいた。何が生死を分けたのか。松尾さんは今も分からない。
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長崎県が発行した「7.23長崎大水害誌」によると、1982年7月23日午後4時50分、長崎海洋気象台(当時)は県本土に大雨・洪水警報を発表。同市で午後7時ごろから1時間当たり100ミリ程度の雨が続き、午後10時までの3時間降水量は315ミリに上った。
雨は容赦なく、人々を打ち付けた。大量の雨で地面が見えないほど。銅座町で理容師をしていた女性=当時(18)=は側溝に落ちないよう、見知らぬ人同士と腕を組み、助け合いながら家路をたどった。
県道路建設課職員だった古賀優さん=当時(34)=。仕事を切り上げ、繁華街へ繰り出そうとしていた。旧県庁から中央橋の方に目をやると車が何台も濁流にのまれている。足が震えた。一晩中、災害対応に追われた。「それから1カ月ほど、長崎港で次々に遺体が見つかった」
浦上署の巡査だった男性=当時(30)=は虹が丘町のアパートから歩いて署へ向かった。緊急時の非常招集。浦上川が氾濫したらしく、道路の水かさがどんどん増していく。署に到着する頃には、首ぐらいまで水に漬かった。
すぐに倒壊家屋に取り残された人の救出作業に当たった。「遺体が出た」。現場で誰かが声を上げた。搬送しようにも混線したり電話線が切れたりして署と連絡が取れない。その場で遺体を見守ることしかできず、遺族に「鬼」とののしられた。悲痛な声だった。
万屋町の自宅にいた中尾直己さん=当時(19)=。午後8時からの刑事ドラマ「太陽にほえろ!」を見始めたら、突然画面が消え、辺りが真っ暗に。落雷により市内全域が停電。窓から外を見ると、観光通りは川のように水があふれ、車が流されていた。「翌朝、旧岡政デパートの正面玄関に車が突っ込み、その上に2台が重なっているのを見た。停電は5日間続いた」。中尾さんが回想する。
暗闇に響く雨や濁流の音と雷鳴。長崎の人々は、まんじりともせず、ただ夜明けを待った。
「振り返れば、(日本の)大水害は長崎から始まった」。万才町のビルに入っていた職場で29歳の時に被災した坂元利弘さん(69)は今こう思う。
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死者・行方不明者299人を出した長崎大水害から23日で40年。近年、風水害は激甚化し、毎年のように各地で被害が出ている。当時を知る人々の証言や専門家の声を交えながら、長崎の「防災力」を点検する。