江戸後期の長崎で活躍した出島商館医シーボルトが、西洋医学や自然科学などの知識を日本人に教えた私塾兼診療所「鳴滝塾」(現・長崎市鳴滝2丁目)や、門人について記述した自筆資料が新たに見つかった。シーボルトの周辺には通常10人程度の門人がいたことや、門人に翻訳させた医学書名などが記されている。シーボルトが門人や鳴滝塾について自ら書いたものは少なく、専門家は「当時の門人教育や鳴滝塾の役割の一端が明らかになることが期待される」としている。
資料は、ドイツ在住のシーボルトの末裔フォン・ブランデンシュタイン家が所蔵する「ブランデンシュタイン家文書」にあった未刊の自筆草稿「薬学の日本への導入と発展に関する史的概観」(28ページ)の最後の2ページ部分。ドイツ語で書かれており、作成年代は不明。長崎純心大客員教授の宮坂正英さん(67)が国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)との国際共同研究プロジェクトの一環で同文書の解読を進める中で見つけた。
1823年に来日したシーボルトは、国禁の日本地図などの海外持ちだしを図った「シーボルト事件」(28年)により海外追放となった。そのため事件の影響が広がらないよう、門人の具体的な人物名や鳴滝塾についてあまり記録が残されておらず、ほとんど実態が分かっていなかった。
今回の資料には、「出島での私の門人は通常10人を超えることはなかった。彼らは毎日私の周りにいて、私とともに私の学術調査のために働いていた」など、門人の具体的な人数や関係性が分かるシーボルトの記述があった。
「1824年から1829年の間に私の指導のもとで私の門人たちによって以下のものが翻訳された」として、コンスブルッフ、エバーマイヤー(共著)「医学ハンドブック」、ヴェラー「眼科学」、ティットマン「外科学」、ツュンベリー「日本植物誌」、フーフェランド「マクロビオティック」の5冊が挙げられている。全て19世紀初めに出版されたもので、幕末に蘭学者によって翻訳され流布したものが多いという。
宮坂さんは「シーボルトの門人に対する医学教育はこれまで、門人やシーボルトと接した日本人の記述から、手術の際の臨床教育や薬剤の処方など実践的なものしか知られていなかった。この資料で、門人たちの西洋医学や植物学の洋書翻訳をシーボルトが直接指導していたことが明らかになった」と指摘する。
鳴滝塾跡隣接地に立つシーボルト記念館の織田毅館長は「これまで鳴滝塾については謎に包まれて、よく分かっていなかった。今回の発見が、特にシーボルトの医学教育の実態解明の一助になる」と語った。