長崎学研究所長の赤瀬浩さんが著書「長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド」(講談社現代新書)を出版した。江戸期、地場産業のない長崎で莫大(ばくだい)な収入をもたらした遊女や遊廓(ゆうかく)社会の実態を、新出資料を交えて解説。対外貿易の利益を地元へ還流させることに遊廓の存在意義があったと指摘し、「資源や特産品がない代わりに、来崎する外国人や貿易商人に若い娘を売り、その収入を住民に回してまちを維持したという意味で、長崎は『遊廓都市』だった」との見解を示している。
丸山遊廓は1642年、市中に散在した遊女屋が隣接する丸山、寄合両町を合わせた地区に集められて成立した。江戸期を通して長崎が対外貿易の窓口だったため、日本人以外にもオランダ人や唐人を客に取るなど他都市の遊廓と異なる特質があった。
赤瀬さんによると、長崎の遊女の多くは市中の貧家出身で、遊女になった後も実家との関係が続き、その収入で家族らを養った。他の住民も遊女に対し「自分の娘」「近所の娘」という親しみを共有し、決してさげすみの対象ではなかった。「長崎の庶民の共同体というものが、丸山遊廓の根本になっていた」と語る。
同著では地域の一員として溶け込んだ遊女の実態を、多くの資料により浮かび上がらせている。
そのうちの一つ「本山家文書」は本石灰町で盗賊方を務めた町乙名・本山家に伝わる1800年代の資料で、2019年に市が購入し長崎歴史文化博物館で収蔵。盗賊方は丸山、寄合両町の遊女屋からの苦情などを受け付け、奉行所に上げるかどうかを判断する役目で、犯科帳にも載っていない生々しい出来事が多く記録されている。
例えば1864年、先輩遊女のいじめのために他の遊女5人が遊女屋から家出。先輩遊女とのトラブルを懸念して店に戻したくないという親に対し、遊女屋側が奉行所へ親たちの心得違いを諭して店に難題を言わないように命じてほしいといった申し出が出されていたという。
「奉行所が遊女屋の側に立って遊女の親を叱ることはほとんどなく、逆に遊女屋を責め、遊女や親に同情的な裁きを下していた。遊女の親を敵に回すことは、そのコミュニティーを敵に回すことも同然であった。貿易都市長崎の治安維持上、住民の反発は避けねばならない長崎奉行の立場がここには反映されている」としている。
同著を読むと、遊廓のシステムだけでなく、長崎の貿易や統治の仕組みまで広く理解できる内容ともなっている。
「当時の長崎は内部的にはすごく連帯感のある平等な社会。今の価値観で遊女はかわいそうやったねと同情するのには違和感がある」と赤瀬さん。「この本に出てくる約200人の人々はほとんどが誰にも知られていない『名もなき人』だが、それぞれが必死に生きて全うした人生がある。長崎はそういう庶民が造った町だから個性的。それをこの本を通してアピールしたい」と語った。新書判、368ページ。1320円。
長崎は「遊廓都市」だった 長崎学研究所長 赤瀬さん 新出資料交えた著書出版
2021/11/09 [13:00] 公開