長崎県で遊郭といえば長崎の丸山が代表格だが、軍港として栄えた佐世保にもかつて遊郭があった。数年前に社会現象を巻き起こした漫画、アニメの「鬼滅の刃」では「遊郭編」が好評を博し、来年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は吉原遊郭が舞台として登場。何かと遊郭にスポットが当たる。佐世保に存在した往時の面影を求めて、花街の跡をたどった。
遊郭設置の声高まる
1886(明治19)年4月、佐世保に旧海軍の鎮守府設置が内定すると、軍港としてすさまじい勢いで発展した。外から多くの男性が労働力として佐世保に吸い寄せられるのと呼応するように、遊郭を設置するよう求める声も高まった。そうして日宇村木風免に木風遊郭ができた。
しかし、中心部から1里(約4キロ)と遠かったため、より中心部に近い場所へ移転したいと業者から申請が出され、90(明治23)年、小佐世保免の一画が新たに遊郭地と指定された。翌91年、移転し、後の勝富遊郭へと続く小佐世保遊郭が誕生した。
94年の日清戦争勃発でさらに栄えた佐世保の町とともに遊郭も拡大。97年には貸座敷(遊女屋)18軒、娼妓(しょうぎ)(遊女)約250人に上った。1904(明治37)年開戦の日露戦争を経て遊郭はますます膨張。13年(大正2)年には娼妓約500人を抱えるまでになった。
「悲壮感など感じさせず」
18年の第1次世界大戦終結後、戦後不況やライバルの名切遊郭(花園遊郭)の台頭で勝富遊郭(小佐世保遊郭)は衰退。第2次世界大戦に突入し、両遊郭は45(昭和20)年6月28日から29日にかけて、佐世保空襲によって焼失した。
戦後、勝富町に勝富遊郭は復活し、特殊飲食店街として58年4月1日の売春防止法罰則施行前まで約6年間、存在した。
市中心部のアーケードから約1キロの場所にある勝富町は閑静な住宅街となっているが、現在も往時の名残をとどめる民家が数軒ある。喫茶店とパン屋を併設している「廣喜屋・ろまん茶屋まほろば」は趣のある遊郭的な造りを活用して営業。光に透けて艶やかに輝く小窓や女性たちが使っていた生活用品などがそのまま残っている。
小佐世保町で暮らす多美子さん(78)は終戦翌年の46年、勝富町の米屋に生まれ、結婚した25歳までを同町で過ごした。「遊郭がある町並みを当たり前だと思っていたけど、小学生のころ、勝富に遊びに来た隣町の同級生たちは違和感を抱いていたようだ」と幼少期を思い起こす。
「働いていた女性たちは悲壮感など感じさせずに上品に着物を着こなし、にこやかにほほ笑んでいた」と語る濵﨑さん。戦後、勝富で暮らした人の思いは現在にどうつながっているのか-。
性病が流行…生き延びた遊郭
2021年から佐世保市勝富町の自治会長を務める牧島伸興さん(71)は「戦争のたびに兵隊が佐世保に集まり、遊郭ができた。佐世保の遊郭史は戦争の歴史とも言える」と話す。
第2次世界大戦後、国策として占領軍用の慰安所「特殊慰安施設協会」(RAA)が設立。東京から始まり、佐世保でも市中心部の山県町に慰安施設が置かれた。結果、占領軍兵士の間で性病が流行。1946(昭和21)年3月、連合国軍総司令部(GHQ)は軍人にRAA施設への立ち入りを禁じた。
同年、GHQは日本の公娼(こうしょう)制度を廃止。しかし、するりと規制をかわすように、戦前から特殊料理屋と呼ばれていた貸座敷は特殊飲食店へと改称し、遊郭だった場所は特殊飲食店街(赤線)として生き延びる。
50年、朝鮮戦争が始まり、佐世保の町は戦争特需に沸いた。「建設省編戦災復興誌第八巻」には、県の戦災復興土地区画整理事業で勝富町に6千坪の土地をあっせんし、山県町から移転させたとの記述がある。観光都市として市中心部の繁華街からは離れた場所に赤線を移したかったようだ。
牧島会長が生まれる約半年前の52年6月、勝富遊郭は「勝富楽園」として戦災からの復活を果たした。牧島さんの家も戦後、勝富町で特殊飲食店を経営していた。悲しい女性史が存在したことは否定しないが、「働く女性たちは虐げられていたというのが現在の遊郭に対する見方だけど、女性たちは職業として割り切っていた」とも話す。
「遊女だと間違われたことも」
時代の波に翻弄(ほんろう)されながらも繁栄と衰退、復活を繰り返してきた遊郭だが、ついに終焉(しゅうえん)を迎えることになる。56年に売春防止法が公布、翌57年4月1日に施行された。罰則施行は翌58年4月1日からで業者には1年間の猶予が与えられた。県内では58年3月15日、479の業者が一斉廃業。復活したのもつかの間、わずか6年弱で勝富町から“紅灯”は消えた。
勝富町に住む廣瀬淳子さん(87)は59年、前年まで特殊飲食店として営業していた旅館「廣喜屋」に嫁いできた。「まだ遊郭の名残があったからか、知らない人から遊女だと間違われたこともある」と笑顔で振り返る。
夫の祖母トキさん(79年に84歳で死去)は戦前から勝富町で遊郭「廣喜屋」を営み、戦後の山県町からの赤線移転で戻ってきた。廣瀬さんがお見合い結婚で夫と結ばれたのは、トキさんに気に入られたから。「あなたがこの店の大黒柱になるのよ」と言われ、期待に応えるよう朝から晩まで働いた。
売春防止法施行後、全国の赤線では旅館に転業する店が多く、勝富町も例外ではなかった。廣喜屋は70年代まで旅館として修学旅行生や一般客を受け入れた。58年以降に同町の転業者たちは旅館組合を結成したものの、「男性たちは派手に遊び仕事は何もしなかった」と廣瀬さんは苦笑する。佐世保おくんちの日はきれいな着物を着て出掛ける家族を横目に一人家事に追われていたと言う。
牧島会長の家も58年以降は「福家旅館」として営業していた。製薬会社の営業社員が佐世保市内の病院を回るため、月曜から金曜まで旅館に泊まっていた姿が印象に残っている。年月がたち、後継者不足や市中心部に現代的なホテルが建つようになって旅館街としての色合いは薄れていった。
今では女性客多い店に
廣喜屋は、2017年12月、「廣喜屋・ろまん茶屋まほろば」に生まれ変わった。オーナーの舛元淳子さん(61)は佐世保市出身で08年にNPO法人ステップアップステーションを設立。発達障害がある人などの就労支援を目的にパン屋「オードリー」の松浦店や祇園店を出店してきた。
次は飲食店を立ち上げたいと考えていた時に出会ったのが廣喜屋跡。廣瀬さんは旅館を辞めてからは間貸しをしていたが、売却しようと考えていた。「他の人に売れば家が数軒建つだけだけど、自分だったら勝富町内に楽しい場所を作ってみせる」。舛元さんの熱意に廣瀬さんは心動かされ、建物と土地を譲り売った。
店名は遊郭の屋号と知人が営んでいた店の名前を合わせた。約100坪の土地の上でかつての地域の隆盛をうかがわせる木造2階、地下1階のまほろば。白を基調とした外観で延べ床面積は522平方メートル。客は食事だけでなく構造も見て回って楽しめる。
「随所に花街の名残がある幻想的な空間。かつては男性が利用していた店なのに、今は女性のお客さんの方が多いのは不思議」と舛元さんはほほ笑む。廣瀬さんは「舛元さんの情熱に押され、屋号も預けた。後世まで残ってほしい」と見守っている。
遊郭設置の声高まる
1886(明治19)年4月、佐世保に旧海軍の鎮守府設置が内定すると、軍港としてすさまじい勢いで発展した。外から多くの男性が労働力として佐世保に吸い寄せられるのと呼応するように、遊郭を設置するよう求める声も高まった。そうして日宇村木風免に木風遊郭ができた。
しかし、中心部から1里(約4キロ)と遠かったため、より中心部に近い場所へ移転したいと業者から申請が出され、90(明治23)年、小佐世保免の一画が新たに遊郭地と指定された。翌91年、移転し、後の勝富遊郭へと続く小佐世保遊郭が誕生した。
94年の日清戦争勃発でさらに栄えた佐世保の町とともに遊郭も拡大。97年には貸座敷(遊女屋)18軒、娼妓(しょうぎ)(遊女)約250人に上った。1904(明治37)年開戦の日露戦争を経て遊郭はますます膨張。13年(大正2)年には娼妓約500人を抱えるまでになった。
「悲壮感など感じさせず」
18年の第1次世界大戦終結後、戦後不況やライバルの名切遊郭(花園遊郭)の台頭で勝富遊郭(小佐世保遊郭)は衰退。第2次世界大戦に突入し、両遊郭は45(昭和20)年6月28日から29日にかけて、佐世保空襲によって焼失した。
戦後、勝富町に勝富遊郭は復活し、特殊飲食店街として58年4月1日の売春防止法罰則施行前まで約6年間、存在した。
市中心部のアーケードから約1キロの場所にある勝富町は閑静な住宅街となっているが、現在も往時の名残をとどめる民家が数軒ある。喫茶店とパン屋を併設している「廣喜屋・ろまん茶屋まほろば」は趣のある遊郭的な造りを活用して営業。光に透けて艶やかに輝く小窓や女性たちが使っていた生活用品などがそのまま残っている。
小佐世保町で暮らす多美子さん(78)は終戦翌年の46年、勝富町の米屋に生まれ、結婚した25歳までを同町で過ごした。「遊郭がある町並みを当たり前だと思っていたけど、小学生のころ、勝富に遊びに来た隣町の同級生たちは違和感を抱いていたようだ」と幼少期を思い起こす。
「働いていた女性たちは悲壮感など感じさせずに上品に着物を着こなし、にこやかにほほ笑んでいた」と語る濵﨑さん。戦後、勝富で暮らした人の思いは現在にどうつながっているのか-。
性病が流行…生き延びた遊郭
2021年から佐世保市勝富町の自治会長を務める牧島伸興さん(71)は「戦争のたびに兵隊が佐世保に集まり、遊郭ができた。佐世保の遊郭史は戦争の歴史とも言える」と話す。
第2次世界大戦後、国策として占領軍用の慰安所「特殊慰安施設協会」(RAA)が設立。東京から始まり、佐世保でも市中心部の山県町に慰安施設が置かれた。結果、占領軍兵士の間で性病が流行。1946(昭和21)年3月、連合国軍総司令部(GHQ)は軍人にRAA施設への立ち入りを禁じた。
同年、GHQは日本の公娼(こうしょう)制度を廃止。しかし、するりと規制をかわすように、戦前から特殊料理屋と呼ばれていた貸座敷は特殊飲食店へと改称し、遊郭だった場所は特殊飲食店街(赤線)として生き延びる。
50年、朝鮮戦争が始まり、佐世保の町は戦争特需に沸いた。「建設省編戦災復興誌第八巻」には、県の戦災復興土地区画整理事業で勝富町に6千坪の土地をあっせんし、山県町から移転させたとの記述がある。観光都市として市中心部の繁華街からは離れた場所に赤線を移したかったようだ。
牧島会長が生まれる約半年前の52年6月、勝富遊郭は「勝富楽園」として戦災からの復活を果たした。牧島さんの家も戦後、勝富町で特殊飲食店を経営していた。悲しい女性史が存在したことは否定しないが、「働く女性たちは虐げられていたというのが現在の遊郭に対する見方だけど、女性たちは職業として割り切っていた」とも話す。
「遊女だと間違われたことも」
時代の波に翻弄(ほんろう)されながらも繁栄と衰退、復活を繰り返してきた遊郭だが、ついに終焉(しゅうえん)を迎えることになる。56年に売春防止法が公布、翌57年4月1日に施行された。罰則施行は翌58年4月1日からで業者には1年間の猶予が与えられた。県内では58年3月15日、479の業者が一斉廃業。復活したのもつかの間、わずか6年弱で勝富町から“紅灯”は消えた。
勝富町に住む廣瀬淳子さん(87)は59年、前年まで特殊飲食店として営業していた旅館「廣喜屋」に嫁いできた。「まだ遊郭の名残があったからか、知らない人から遊女だと間違われたこともある」と笑顔で振り返る。
夫の祖母トキさん(79年に84歳で死去)は戦前から勝富町で遊郭「廣喜屋」を営み、戦後の山県町からの赤線移転で戻ってきた。廣瀬さんがお見合い結婚で夫と結ばれたのは、トキさんに気に入られたから。「あなたがこの店の大黒柱になるのよ」と言われ、期待に応えるよう朝から晩まで働いた。
売春防止法施行後、全国の赤線では旅館に転業する店が多く、勝富町も例外ではなかった。廣喜屋は70年代まで旅館として修学旅行生や一般客を受け入れた。58年以降に同町の転業者たちは旅館組合を結成したものの、「男性たちは派手に遊び仕事は何もしなかった」と廣瀬さんは苦笑する。佐世保おくんちの日はきれいな着物を着て出掛ける家族を横目に一人家事に追われていたと言う。
牧島会長の家も58年以降は「福家旅館」として営業していた。製薬会社の営業社員が佐世保市内の病院を回るため、月曜から金曜まで旅館に泊まっていた姿が印象に残っている。年月がたち、後継者不足や市中心部に現代的なホテルが建つようになって旅館街としての色合いは薄れていった。
今では女性客多い店に
廣喜屋は、2017年12月、「廣喜屋・ろまん茶屋まほろば」に生まれ変わった。オーナーの舛元淳子さん(61)は佐世保市出身で08年にNPO法人ステップアップステーションを設立。発達障害がある人などの就労支援を目的にパン屋「オードリー」の松浦店や祇園店を出店してきた。
次は飲食店を立ち上げたいと考えていた時に出会ったのが廣喜屋跡。廣瀬さんは旅館を辞めてからは間貸しをしていたが、売却しようと考えていた。「他の人に売れば家が数軒建つだけだけど、自分だったら勝富町内に楽しい場所を作ってみせる」。舛元さんの熱意に廣瀬さんは心動かされ、建物と土地を譲り売った。
店名は遊郭の屋号と知人が営んでいた店の名前を合わせた。約100坪の土地の上でかつての地域の隆盛をうかがわせる木造2階、地下1階のまほろば。白を基調とした外観で延べ床面積は522平方メートル。客は食事だけでなく構造も見て回って楽しめる。
「随所に花街の名残がある幻想的な空間。かつては男性が利用していた店なのに、今は女性のお客さんの方が多いのは不思議」と舛元さんはほほ笑む。廣瀬さんは「舛元さんの情熱に押され、屋号も預けた。後世まで残ってほしい」と見守っている。