「私が六つの時の話をするね。長崎に原爆が落ちた1945年8月9日。実は私の誕生日なの」-。長崎市内の保育園で週2、3日、保育士として勤務する奥村八重子さん(85)=同市=。被爆者ではないが、毎年夏になると、年長や学童の子どもたちに幼い頃の経験を語っている。
6人きょうだいの4番目として現在の諫早市高城町に暮らしていた。当時、父は出征。「今日はやえちゃんの誕生日ね」と母は言った。空襲警報が鳴り、家族全員で近くの防空壕(ごう)に避難した。「伏せー!」。消防のおじさんが叫んだ。外からは米B29爆撃機の「ブー」という音が聞こえた。しばらくして消防のおじさんが言った。「大ごとが起きた」
自宅は諫早国民学校の近くだった。夕方、かっぽう着を着た母は救護を手伝うため、国民学校に向かった。帰って来ない母が気になり、後を追いかけると、講堂には炭のようになった人たちが寝かされていた。臭いがきつく、膿(うみ)が出たり焼けただれたり。数日もすると、国民学校近くの運動場で遺体が焼かれた。暗夜に火の粉が飛び散った。家まで漂ってきた腐ったような臭いも記憶に残っている。
当時のことを語り始めたのは60歳を過ぎた頃。勤務する保育園で語り部をしていた被爆者が体調を崩し、代わりに話してほしいと頼まれた。「原爆のことは避けて、話してこなかった」が、経験したからこそ話せることもあると引き受けた。いざ語ると決まると、当時の記憶が次々とよみがえってきた。以来、20年以上にわたり、当時の自分の年齢と近い子どもたちに語り続けている。母が戦時中に使ったもんぺや防空頭巾を身に着けて話したこともあるという。
「原爆は人災。人を殺すのが一番の罪で、許せない」と落ち着いた声で話す。誕生日の8月9日は「人よりも平和のことを考えて、自分を振り返る日なんじゃないかな」。生まれた時にその人に使命が与えられるとも話し、「子どもたちと触れ合う中で、人のぬくもりと自然の大切さを伝えていきたい」。
昨年末の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞については「被爆者たちがこつこつと諦めないで世界に訴えてきたことが素晴らしい」と喜び、世界各国の首脳らが一刻も早く核兵器の非人道性に気付くことを願う。被爆80年を迎え「人間として生まれたこと、命の尊さに感謝して」平和活動の歩みを進める。
6人きょうだいの4番目として現在の諫早市高城町に暮らしていた。当時、父は出征。「今日はやえちゃんの誕生日ね」と母は言った。空襲警報が鳴り、家族全員で近くの防空壕(ごう)に避難した。「伏せー!」。消防のおじさんが叫んだ。外からは米B29爆撃機の「ブー」という音が聞こえた。しばらくして消防のおじさんが言った。「大ごとが起きた」
自宅は諫早国民学校の近くだった。夕方、かっぽう着を着た母は救護を手伝うため、国民学校に向かった。帰って来ない母が気になり、後を追いかけると、講堂には炭のようになった人たちが寝かされていた。臭いがきつく、膿(うみ)が出たり焼けただれたり。数日もすると、国民学校近くの運動場で遺体が焼かれた。暗夜に火の粉が飛び散った。家まで漂ってきた腐ったような臭いも記憶に残っている。
当時のことを語り始めたのは60歳を過ぎた頃。勤務する保育園で語り部をしていた被爆者が体調を崩し、代わりに話してほしいと頼まれた。「原爆のことは避けて、話してこなかった」が、経験したからこそ話せることもあると引き受けた。いざ語ると決まると、当時の記憶が次々とよみがえってきた。以来、20年以上にわたり、当時の自分の年齢と近い子どもたちに語り続けている。母が戦時中に使ったもんぺや防空頭巾を身に着けて話したこともあるという。
「原爆は人災。人を殺すのが一番の罪で、許せない」と落ち着いた声で話す。誕生日の8月9日は「人よりも平和のことを考えて、自分を振り返る日なんじゃないかな」。生まれた時にその人に使命が与えられるとも話し、「子どもたちと触れ合う中で、人のぬくもりと自然の大切さを伝えていきたい」。
昨年末の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞については「被爆者たちがこつこつと諦めないで世界に訴えてきたことが素晴らしい」と喜び、世界各国の首脳らが一刻も早く核兵器の非人道性に気付くことを願う。被爆80年を迎え「人間として生まれたこと、命の尊さに感謝して」平和活動の歩みを進める。