<長崎空港開港50周年・昭和から令和へ①>ハンディ覆す逆転の一手…知事「西の国際空港に」と大計

長崎新聞 2025/04/25 [12:15] 公開

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大村市箕島町の長崎空港は1975(昭和50)年の開港から5月1日で50年を迎える。世界初の海上空港として誕生し、本県の重要な交通拠点となってきた。これまでの経緯を振り返り、昭和から令和へ託された思いを考える。

 長崎空港が開港した翌年の76(同51)年10月。当時の知事、久保勘一は航空政策研究会(東京)の定例研究会に講師として招かれた。空港の建設候補地を検討した時のことを、こう振り返っている。

 「陸の上ばかり見続けて歩いておりまして、海の上を全く着目してなかったわけでございます」

 検討が始まったのは高度経済成長真っただ中の60年代。海上空港は、東京から遠く平地が少ない本県の地理的ハンディを覆す逆転の一手だった。

 開港前、大村市本土には大村空港があった。23(大正12)年に大村海軍航空隊として開設。55(昭和30)年に自衛隊と共用の空港として開業した。

 だが、滑走路は1200メートルでジェット機の離着陸は困難。延伸か新空港建設かを迫られていた。久保は県の経済浮揚のために「どうしても東京、大阪に近づけたい」と述べ、交通インフラの整備が基本的な課題だったと指摘している。

 自衛隊施設や周囲の山の位置が問題となり延伸は難しかった。県は2千~3千メートルの滑走路を求め8カ所程度の候補地を検討したが、半島が多く平地が少ない県内に適地はなかった。

 大村湾に浮かぶ箕島が候補地に浮上したのは久保就任前の67(同42)年。大村市議の池田実雄が提唱した-と元島民の松尾正人(76)=同市上諏訪町=が保管する文書に記録されていた。文書によると戦前、池田は大村航空隊に所属。訓練飛行時に箕島が巨大な航空母艦に見えたのがきっかけという。

 市議会の会議録を調べると、同年12月、池田は一般質問で空港移転を訴えていた。大村が“10万人都市”になるための提案だった。さらに翌68(同43)年12月の議会では「飛行場を箕島に移転するのが最も適当」と主張。当時の市長、松本寅一は「非常にいいのでは」と答弁している。

 70(同45)年、久保が知事に就任。6年後の講演によると「県庁の若い技術屋」から箕島案を聞いた。興味を覚え、その日のうちに船で箕島へ渡った。島の山を削り海を埋め立てればいいかもしれない、と考えた。

 海上であれば騒音などの公害が少ない。さらに延伸もしやすい。久保は箕島に可能性を見いだした。講演では、成田や大阪の各空港を引き合いに、こんな大計を披露していた。

 「(成田、大阪の)下で結構でございますが、その下にぶら下がって、ひとつ西の国際空港というものにしていただくわけには」

=文中敬称略=