遠い異国での挑戦を認めてくれた母への感謝を胸にコートを駆け回った。島原中央のコンゴ人留学生エザンギは、長崎県予選直前の9月に大好きな母ジョリーティ・チナチナさん(享年50)を病気で亡くした。突然の訃報に深く悲しみながらも島原に残り、187センチの長身を生かしてチームを全国に導いた3年生。初勝利はならず「1年生のときは(バスケットを)難しいと思ったけど、2、3年生では楽しくできた。もっとみんなと戦いたかった」とつぶやいた。
6人きょうだいの5番目で一番背が高く、母国で暮らしていた中学3年のころにバスケットを始めた。競技経験があった母の勧めだった。その高さがすぐに関係者の目に留まり「バスケ部を新しくつくる日本の高校に進学しないか」と誘われた。当初は離れて暮らすことに反対した母。最後は娘の「日本に行きたい」という思いを尊重し、温かく送り出してくれた。
来日当初はまだ競技歴1年。言葉や食事、気候など、慣れない異国での生活にも苦労したが、持ち前の負けず嫌いな性格で一つずつ克服していった。チームメートとの差を埋めるために、朝から500本のシュート練習をこなす日もあった。
自らの成長に比例するようにチームは力をつけ、昨冬のこの大会で創部以来初の全国出場を果たした。今年6月の九州大会は準決勝で強豪の精華女(福岡)に善戦。母に国際電話で朗報を伝えるのが日々の楽しみだった。
別れは突然だった。9月、母が倒れて搬送先の病院で息を引き取ったと連絡が入った。すぐに帰国しなければと思ったが、集大成となる大会の県予選が迫っていた。大事な時期にチームに迷惑をかけられない。悲しみを振り払うように練習に没頭した。
訃報から1カ月後の県予選決勝。1人で42得点を挙げ、夏のインターハイ出場を阻まれたライバル長崎西に4点差で雪辱した。2度目の全国舞台となったこの日は厳しいマークに苦しみ、序盤からファウルもかさんで大胆なプレーは制限されたが、ゴール下で奮闘。チーム最多となる21点を決めた。創部3年目の新設チームの躍進に欠かせない存在だった。
母が倒れる前日。電話で最後に伝えた言葉は「バスケを頑張ります」だった。集大成の大会を終え、母国へ一時帰国する。「バスケをやめずに頑張ります」。きっと天国で見守ってくれている大好きな母へ、墓前でもう一度伝えたい。
6人きょうだいの5番目で一番背が高く、母国で暮らしていた中学3年のころにバスケットを始めた。競技経験があった母の勧めだった。その高さがすぐに関係者の目に留まり「バスケ部を新しくつくる日本の高校に進学しないか」と誘われた。当初は離れて暮らすことに反対した母。最後は娘の「日本に行きたい」という思いを尊重し、温かく送り出してくれた。
来日当初はまだ競技歴1年。言葉や食事、気候など、慣れない異国での生活にも苦労したが、持ち前の負けず嫌いな性格で一つずつ克服していった。チームメートとの差を埋めるために、朝から500本のシュート練習をこなす日もあった。
自らの成長に比例するようにチームは力をつけ、昨冬のこの大会で創部以来初の全国出場を果たした。今年6月の九州大会は準決勝で強豪の精華女(福岡)に善戦。母に国際電話で朗報を伝えるのが日々の楽しみだった。
別れは突然だった。9月、母が倒れて搬送先の病院で息を引き取ったと連絡が入った。すぐに帰国しなければと思ったが、集大成となる大会の県予選が迫っていた。大事な時期にチームに迷惑をかけられない。悲しみを振り払うように練習に没頭した。
訃報から1カ月後の県予選決勝。1人で42得点を挙げ、夏のインターハイ出場を阻まれたライバル長崎西に4点差で雪辱した。2度目の全国舞台となったこの日は厳しいマークに苦しみ、序盤からファウルもかさんで大胆なプレーは制限されたが、ゴール下で奮闘。チーム最多となる21点を決めた。創部3年目の新設チームの躍進に欠かせない存在だった。
母が倒れる前日。電話で最後に伝えた言葉は「バスケを頑張ります」だった。集大成の大会を終え、母国へ一時帰国する。「バスケをやめずに頑張ります」。きっと天国で見守ってくれている大好きな母へ、墓前でもう一度伝えたい。